・酒造りを許可制にすることを朝廷が思いつき、「壺銭」を課税し始めた鎌倉時代
・外国人が驚くほどにだらしない飲酒をする町民を抑制するために綱吉が一計を案じた江戸時代
・多額の軍事費を調達するために、お酒の税が狙い撃ちされた明治時代
こんにちは(あるいはこんばんは)。
皆さんはお酒に税金がかかっていることを、おそらくなんとなく知っているけれど、詳細はあまりよく知らないのではないかと思います。かくいうワタクシも、それなりに長い間お酒を飲んできたのに、ワインをつくるようになるまでは詳しく知りませんでした。
というわけで、今回はお酒における税金について、少し詳しく見ていきます。
酒税(のようなもの)のはじまり(鎌倉時代)
お酒にかかる税(のような制度)は、商業が盛んになり、米と同等の価値をもつ商品として酒が求められ、自前で酒を製造・販売する「造り酒屋」が成立しはじめた中世(鎌倉時代)からあったようです。
この時代の酒税(のような制度)は麹を製造する酒麹業者への臨時的な徴税から始まりましたが、本格的な課税は室町時代となる1371年に足利義満が造り酒屋1軒ごとに「壺銭」(酒屋に対する課税)を課したのが最初とされています。

鎌倉時代の酒造りを生成AIで描いてみました。木樽でつくるようになるのはもう少しあとの時代になってからで、この時代は甕(かめ)や壺でお酒をつくっていたとされています
背景としては、鎌倉時代に入り、造り酒屋が全国各地に広まっていくことで同時にお酒によるトラブル(いつの時代も変わりませんね)も広がったことが挙げられます。この対策の1つとして、酒造りを許可制にすることを朝廷が思いつきます。そして許可された造り酒屋に「壺銭」を課税することで、収入が減少していた朝廷の財政を立て直すことをも目論んだのです。
この課税の単位ですが、販売した1つの酒壺に200文が課せられたようです。この200文というのが現在の貨幣価値にしてどれくらいなのか確たることは言えませんが、とあるサイト(*)で「3万円くらいだろう」という記載をみかけました。

一方、酒壺のサイズですが、2〜3石のものが多かったようなのでおよそ360〜540リットルくらい、間を取ると450リットルですね。この2つの数字の確からしさはなんとも言えませんが、仮に用いたとすると、鎌倉時代の酒税は1リットルあたりおよそ67円ということのようです。この数字が高いかやすいか、後ほど検証してみたいと思います。
江戸時代の酒税制度
鎌倉時代にはじまった幕府・朝廷による酒税制度ですが、江戸時代には形をかえて継続します。まず、江戸初期に「酒株」という制度が導入されます。これは一定の保証金を収めることで酒造りを許可するという仕組みです。
その後江戸中期になり酒の価格の1/3の「酒運上」と呼ばれる運上金(特定の営業活動に課せられる、いまで言うところの消費税)を課すようになりました(最大時は酒の価格の50%が課されています)。江戸中期に入って、太平の世となり、これまで武家を中心に飲まれていた酒が嗜好品として大衆にも広まっていくことでトラブルも増えていたのです。

その時代の様子を飯野亮一著「居酒屋の誕生 ―江戸の呑みだおれ文化」がわかりやすく描いています。少々長いのですがこちらで引用してみます。
大坂人からみると江戸市民は酒好きにみえたが、西洋人からみると日本人自体が異常な酒の飲み方をしているように映っていた。
信長・秀吉の時代に在日していた宣教師ルイス・フロイス(在日一五六三~九七)は、その著『日欧文化比較』(天正十三年・一五八五)で、
「われわれの間では誰も自分の欲する以上に酒を飲まず、人からしつこくすすめられることもない。日本では非常にしつこくすすめ合うので、あるものは嘔吐し、また他のものは酔払う」
「われわれの間では酒を飲んで前後不覚に陥ることは大きな恥辱であり、不名誉である。日本ではそれを誇りとして語り……」
と、西洋人と日本人との酒の飲み方の違いに触れ、日本人はしつっこく酒をすすめ合って酔っ払い、前後不覚に酔っ払ってもそれを恥とはしないと指摘している。このような日本人の酒の飲み方に五代将軍綱吉はブレーキを掛けようとした。
綱吉は元禄九年(一六九六)八月十七日に次のような触れを出した(『御触書寛保集成』二一四五)。(一)酒に酔い、心ならず不届きな行いをする者がいる。兼ねてから大酒を飲むことを禁止しているが、今後はいっそう飲酒を慎むこと。
(二)客などがあっても、酒を強いてはいけない。酒狂いの者があれば、酒を飲ませた者も越度とする。
(三)酒商売をする者を減らしていくこと。まさにフロイスが指摘した大酒を飲んで悪酔いしたり、他人に酒を強要したりすることを禁止する内容になっている。また、これを実現するには酒屋を減らすことも必要と考えている。綱吉は一連の「生類憐みの令」と総称される触れを出して動物を愛護したことで有名だが、酒は嫌いだったようで、この触れを月番老中の土屋政直が他の老中や若年寄に伝えたとき、「上(綱吉)は酒嫌いなので各自慎むように、また配下にもそれぞれ慎むよう申し渡すように」と申し渡している。

酒嫌いというのもあるのでしょうが、わざわざ時の将軍がお触れを出すほどですから、酒にまつわるトラブルが多発していたのでしょう。この状況を打破するために、高い割合の運上金(営業税)を課すことで酒の流通量を減らして大酒を抑制しつつ、幕府・朝廷の収入を改善しようという目論見があったと考えられます。少し調べてみたのですが、幕府・朝廷の収入はある程度改善したようですが、何度も大酒を禁止するお触れがでていたようなので、抑制効果としての効き目はあまりなかったようです。
明治時代におきた制度変化
こうして続いてきた酒に関する税(のような)制度ですが、明治時代に入って大きく変わります。明治4年(1871年)に明治政府の下で「清酒、濁酒、醤油醸造鑑札収与並ニ収税方法規則」と呼ばれる太政官布告が出されます。新たな政府の元での税制度の発布ですが、内容的には江戸時代の制度と大きく変わらないとされています。
この後、何度か酒税制度は変更されますが、注目されるのは明治8年(1875年)の法改正です。それまでの複雑な酒株(酒税)ルールを撤廃し、税制を酒造税と営業税の2本立てに簡略化することで、醸造技術と資本があれば誰でも酒造りに参入できるように仕組みを変更しました。これにより発令後1年で大小含め3万を超える酒蔵が新たに誕生しています。この変更により「自家醸造」が税法上認められることとなったのですが、わずか24年後の明治32年(1899年)には自家醸造がどぶろくを含めてすべて禁止されることとなり、以来自家醸造は認められていません。


これも生成AIで描いてます(あいかわらず人間の身体の描写が苦手だ…)。江戸時代は小上がりや軒先の長椅子で飲んでいましたが、明治時代にはテーブルと椅子で飲む居酒屋が増えていきました
少々脱線しますが、自家醸造を禁止している国はあまり多くありません。アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、カナダ、オーストラリア、南アフリカ、中国、ロシアなどでは合法で、違法とされるのは日本の他にはイラン、マレーシア、ウクライナなどごく少数の国です。
過去には自家醸造(どぶろくづくり)を禁止するのは人権における幸福追求の権利につき日本国憲法に違反するとして、最高裁まで争った裁判もありましたが、「製造理由の如何を問わず、自家生産の禁止は、税収確保の見地より行政の裁量内にある」との見解のもとに酒税法による自家醸造の禁止は合憲だという判断が下されました。一度は自家醸造を認めていた日本が、禁止するに至った経緯は後ほど説明します。

ついで明治29年(1896年)に「酒造税法」が制定されたことで、制度が再び変わります。それまでの仕組みでは販売したお酒の「売上額」に一律の税率を掛けて課税していたのですが(営業税)、この年に制定された仕組みでは「製造したお酒の量(造石高)」に対して一定の率で課税することになりました。これにより酒造業者は、つくった酒がどれだけ売れたか(あるいはいくらで売れたか)ではなく、お酒をつくった段階で製造した量に応じて決められた酒税を支払わなければならなくなりました。
この時期の明治政府は、日清戦争(明治27〜28年)や日露戦争(明治37〜38年)などの周辺国との情勢変化に対応するために多額の軍事費を調達する必要があり、当時生産量がきわめて多かった商工業製品であり(明治初期の統計では商工業製品として日本で一番生産量が多かったとされています)、嗜好品として位置づけられている(増税しやすい)お酒の税が狙い撃ちされて増税の対象となったかたちです。

当然造り酒屋(酒造メーカー)は売価が上がる=消費低迷につながる増税には反対するのですが、政府側は「自家醸造」を全面的に禁止する(お酒は家でつくるものではなく、酒屋から買ってくるものへと変わる)ことで酒造メーカーの保護を約束し、増税の受け入れを実現します。
こうして増税が受け入れられた酒造税は、自家醸造が禁止された明治32年(1899年)に国税収入の35.5%となり、それまで財源の1位であった地租(現在の固定資産税)の32.5%を抜いて、税収シェアNo.1となりました。この傾向はその後も続き、明治35年(1902年)には国税収入の42%を占め、昭和10年(1935年)に所得税に抜かれるまでほとんどの期間で1位であり、第二次世界大戦後まで国税を支える税でありつづけたのです。
結び
個人的には明治時代の業界保護策と戦費調達のために実施された自家醸造が、いまでも禁止されていることにはもっと議論があっても良いのではないかと感じています。
これまでに訪れたニュージーランドやオーストラリアではスーパーマーケットでホームブルーイングキット(家庭でビールをつくるためのキット)が販売されていますし、アメリカに留学していた頃には友人の学生たちが毎週末のホームパーティーで自家醸造のビールを持ってきて皆で味見・批評したという経験もあります。
「海外では…」といわゆる「出羽守」的なことを言いたいのではなく、日本の場合には古くから米でつくるどぶろく(濁酒=清酒の対義語)が、明治32年の禁止までは伝統的な食文化として続いてきていたことを踏まえると、一時的に理由があって禁止するのはともかく、その論拠が乏しくなっている(ここについては次回に取り上げます)現在でも、禁止し続けるのはなんだかなあという感じがします。
次回10月は収穫・仕込みの真っ最中ですが、なんとか時間をやりくりしてヴィンテージの様子をお届けできればと考えています。時間に余裕がなければ11月にお酒と税の続きをお届けすることになりそうです。
ワインとワイナリーをめぐる冒険
ITの世界から飛び出しワインづくりを目指した雪川醸造代表の山平さん。新しい生活や働き方を追い求める人たちが多くなっている今、NexTalkでは彼の冒険のあらましをシリーズでご紹介していきます。人生における変化と選択、そしてワインの世界の奥行きについて触れていきましょう。
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山平哲也プロフィール:
雪川醸造合同会社代表 / 情報経営イノベーション専門職大学 客員教授。ワイナリーを立ち上げるため2020年に東京から北海道の大雪山系の麓にある東川町に移住。大阪出身。移住前はITサービス企業でIoT事業開発責任者、ネットワーク技術部門責任者等を歴任。パラレルワークでIT企業の新事業検討・開発を支援。早稲田大学ビジネススクール修了。61カ国を訪問した旅好きでニュージーランド、南アフリカでもワインをつくっている。毎日ワインを飲むほど好き。