急激な変化を遂げた街・豊洲。ユニアデックスの社屋があるこの土地を、もっと見たい、知りたい!豊洲で働く人、豊洲に関わりのある人にフォーカスして、仕事現場を訪ねます。
日本ユニシスが豊洲に本社を移したばかりの平成6年、落語好きの社員7人が落語の会を立ち上げました。その名も「都笑亭」。豊洲で暮らす人、働く人の交流の場を目指して始まったトワイライトタイムの寄席は、木戸銭500円、会場で飲んでも食べてもオッケーという気軽さ。豊洲の街が変化するなか、着実にファンを増やして25周年を迎えました。
トヨスの人第6回は、「都笑亭」を支えるユニアデックス元社員、小林敬さんと河内家るぱんとして高座に上がる松嶋安隆さんにインタビュー。豊洲シビックセンター内の、「豊洲文化センター」レクホールで125回目となる寄席におじゃましました。
松嶋 「都笑亭」と書いてトワイライト亭。夕方にやるんでね。大人の放課後活動やりたいね、みたいなところから始まったんですわ。
小林 豊洲で働く人は、仕事が終わって帰る時間。住んでいる人たちは、帰ってくる時間。ちょうどそのクロスする時間にやろう、っていうことでしたね。基本、年に5回の開催で25周年になります。
松嶋 きっかけになったのが、僕らが当時働いてた会社(日本ユニシス)の最上階でやってた催事なんです。社員向けに、雑貨や洋服みたいなものを売るスペースがあって、その日は落語のテープを売ってたんです。10本入りテープをたまたま手にとったら、同じものを一緒に掴んだ人がいて、それが小林さん。
小林 あれは、枝雀のテープだったかな。「落語好きなの?」って聞いたら「好きです」って言うから、そこから話が弾んでね。それまで顔は知ってたけど、喋ったことはなかったんですよ。
松嶋 ちょうど、会社が赤坂から豊洲に引っ越した平成4年に、僕は大阪から東京に異動してきたんです。学生時代、落研やったから、大阪におる時も昔の仲間たちと一緒に落語の会をやっていたんです。だから東京に来て、どないしよとは思ってた。まだ会社の人たちには落語のことは言ってなかったんです。だって「落研やった」言うたら、忘年会で「やれー」言われるでしょ。そんな時に小林さんと知り合うて、「社内にも落語好きはいるよ」言われてね。
小林 僕なんかは、子どもの頃家族でご飯を食べながら聴くのがラジオだったの。落語もよく聴いてましたよ。受験勉強の時もね、教科書開く前に金馬の落語を1本聞いてからにしようかな、とかそんな感じ。松嶋くんと催事で会った日、「社内に落語好きがいるから、皆に声をかけて集まろうよ」って話をしたの。それでさっそく、社内の10人くらいが集まって上野の割烹であんこう鍋つついたよね。
松嶋 その席で、自分はずっと落語をやってるんですって話や、豊洲の街への思いなんかを喋ったんです。当時、日本ユニシスの社員は豊洲では新参者です。あの頃、豊洲言うたらIHIの工場です。僕らネクタイ締めて歩いてるとかなり違和感があって、飲み屋に行っても「よそもんが来た」みたいな空気になる。工場の脇を歩いてると、中からお風呂のええ匂いがしてきてね、お風呂入ってから帰らはんねんなあ、思うたの。豊洲で、工場の人や住んでる人と関われるようなことをしたいな、思うてたんです。
小林 それでね、あの日酔った勢いもあって「落語の会をちょっとやってみますか」ってなったんですよ。
松嶋 僕はね、翌日すぐに「昨日言いましたよね」って皆に確認して回りましたよ。それで、すぐに話を進めたわけです。こういう素人の会は休日に無料でやることが多いんです。でも、休みの日にわざわざ来てもらうのも嫌やったから、平日の夕方がええなあ、と。木戸銭も500円の有料にしました。無料だと、ちょっと用事が入った時に「ごめんな」で終わりやけど、有料だとチケットを誰かに回すでしょ。お客さんの数は減らないんです。それと、お金をいただくんやからこっちも相当気合いを入れてやらんと。僕はね、1回きりじゃなくて何回も続けたいって思ってたんですよ。
小林 あの日割烹に集まった社員のうち、7人で始めました。場所はどうする? って考えた時、「豊洲文化センター」があるじゃないかってことになって、企画書を持ってお願いに行きました。初回は平成6年5月23日の月曜日。和室を借りて、お客さんは37人。ほぼ、うちの会社の人たちでした。僕なんかは、わーって盛り上がって1回やったら終わりのつもりだったのに、「面白かったよ。次いつやるの?」って皆から言われちゃったもんだから、引き下がれないよ。2回目は、文化センター側が「会議室でやりましょう」って提案してくれてね、2部屋分100人キャパのところでやりました。会社の半日休みをとって、午後から皆で準備です。会議室のテーブルを4つ並べて、紐で結んで高座にするんです。階段も必要だから、折りたたんだ机を5つ、3つって重ねて段差を付けてガムテープで固定してね。
松嶋 あの頃ちょうど、世の中にパソコンが出てきた時期なんです。うちはコンピューターの会社やから、ハードルは低いんやけど、まだ今みたいにインターネットがあるわけじゃないし、趣味の世界でしょ。「わざわざパソコン買うて何すんの?」って、奥さんからオッケーが出ないわけです。でも「都笑亭」のポスターやらチケットを作るにはパソコンが使える。「パソコン買う意味があるやん」ってなってね、僕ら皆、パソコンを買う口実ができたわけ。普段会社で、エクセルやパワーポイントを使うてるから、お手のもんです。
小林 メンバー7人が、それぞれ自分が気づいたこと、できることをやったんです。「俺、チケットやるわ」とか「チラシ作るわ」とかね。僕はね、会社の昼休みや仕事の後、チラシを配りにあちこち行きましたよ。銭湯、床屋、消防署にも行ったなあ。食堂のおばちゃんたちにも渡しました。
松嶋 最初の高座に上がったのは、僕を含めて3人。無学亭気楽は、落研出身のうちの会社の同僚で、もう1人の三龍亭多留満は最初に皆で集まった上野の割烹の若旦那です。その後プロになって橘ノ圓満として頑張ってます。最初は和室、次に会議室に移って、その後はレクホール、今のシビックセンターができてからは、5階の大ホールも使わせてもらえるようになって...という具合に、25年の間にステップアップしていったんです。お客さんも、平均すると毎回110人くらいかな。最初の約束で、「もし足が出たらメンバーで割り勘よ」って一筆とってあるんやけど、ありがたいことに1回も足が出たことはないんです。
文化センターの会場はね、飲み食いオッケーってところがいいんです。夕方仕事終わりの時間でしょう。プシュッてあちこちから聞こえてきて、なかにはうつらうつら船漕いでる人もいて、そんなんもええなあ思います。あと、この距離感ね。お酒を飲む噺をやってたらね、「えー、まだ飲むの?」って、目の前の女性が言うの。後で聞いたら、亡くなったご主人がお酒好きでね、つい口から出ちゃったんだって。ああいうのは嬉しいですね。ライブの良さやね。
小林 彼は高座に上がって毎回違う落語をやるわけだから、大変だったと思う。朝、会社に向かう時に会ったことがあるの。歩きながらカセットのイヤホンを耳にして、「よう来たなあ」とか喋ってるんですよ。
松嶋 仕事が忙しくて、どうしても落語のことを考える時間がとれないってこともありましたね。駅から会社までの道中とか、昼休みに近所を歩きながらとか、ぶつぶつやってましたよ。でもね、仕事が忙しい時こそ、落語があったことで、頭の中で仕事がオフになるんです。オンとオフがうまく切り替えられるようになったんは、このおかげです。
小林 僕らは、会社の仕事は仕事、これはこれってとにかく区別してやってきました。仕事も遊びも、全力でってことですね。25年、あっという間で楽しかった。だって「良かったよ」「次はいつ?」ってお客さんが言ってくれるでしょ。あの言葉を聞いたら、本当に嬉しいんですよ。豊洲の方々もいっぱい来てくれるようになってね、今名簿には、1500人くらいの名前があります。その人たちが、いつ来てくれたかっていうのもエクセルで管理しててね、毎回その中から200人ほどに案内ハガキを出すんです。個人情報なので、私が一手に引き受けてやってるから、辞めるに辞められないの。最近じゃあ、「今回は妻と旅行に行くので行けませんけど、次回は行くのでまたハガキを送って下さい」なんて、わざわざ電話が来るんですよ。
松嶋 やめられまへんな。
小林 日本ユニシスの7人から始まって、われわれは途中でユニアデックスに転籍し、いろんな人が関わってくれて今に至るんだけど、今後は新しい人たちに入ってもらいながら、繋げていきたいなあと思いますよ。
【トヨスの人のグっとポイント】
【関連サイト】
<都笑亭> http://www1.u-netsurf.ne.jp/~TKOB/sub2.html
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写真:阿部了 文:阿部直美