あっと驚くような組み合わせを実現した企画や、人的ネットワークを駆使したビジネスなど、さまざまな「つなぐ力」を紹介する本企画「ツナイダ☆チカラ」。第2回は、「酒造りは米作りから」を信念に、酒米作りに力を入れている泉橋(いづみばし)酒造(神奈川県海老名市)の橋場友一社長にインタビュー。地域農業と一体となった純米酒造りにたどり着くまでのストーリーを伺いました。
農村型の酒蔵として江戸末期に創業
― 都心から約1時間の海老名市に酒蔵があることを知らない方も少なくないと思います。泉橋酒造の歴史を教えてください。
泉橋酒造は、江戸時代が終わろうとする1857(安政4)年に創業され、私は6代目です。初代は、親の反対を押し切って酒造りを始めたと聞いています。名前の由来は、当時、蔵の横に流れていた「泉川」と、屋号の「橋場」を組み合わせた「泉橋」ですね。残念ながら、戦前の土地改良で田んぼが整備され、泉川も用水路に姿を変えてしまいました。
― 泉川が残っていないのは残念ですが、田んぼを背景に酒蔵が建つ風景は、しっくりきて、とても美しいですね。
もともと泉橋酒造は、農村型の酒蔵だったといえます。農業の一部に酒造りがあり、地元で作った米を日本酒造りに使っていたはずです。しかし、戦中の1942年に制定された食糧管理法によって、政府が米をいったん買い取ってから流通を管理統制するようになり、それ以降、農業と酒蔵とは完全に分離してしまいました。
― 泉橋酒造の長男として生まれた橋場社長にとって、蔵を継ぐのは自然なことだったのでしょうか。
いずれ蔵を継ぐつもりではいましたが、大学卒業後は大阪で証券会社に就職して営業職に就いていました。1995年に起きた阪神・淡路大震災をきっかけに、海老名へ戻りました。ちょうど、規制緩和で米の流通が自由化された年でした。
「酒造りは米作りから」を信念に
― 今では酒米作りから精米・醸造まで一貫して行う「栽培醸造蔵」を標榜されていますが、当初、橋場社長は米作りのことは関心がなかったそうですね。
父が0.5ヘクタールの田んぼで自宅用に米を育てていて、子どもの頃は手伝わされるのが本当に嫌で、「田んぼなんかやめて、テニスコートにでもすればいい」と本気で思っていました(笑)。まさか、その私が本格的に米作りをするとは思いもしませんでしたね。
― 「田んぼなんかいらない」と思っていた橋場さんが、本格的に米作りを始めようと思ったきっかけは何だったのでしょうか。
『夏子の酒』ですね。1994年に、造り酒屋と酒米をテーマにしたTVドラマ『夏子の酒』が放映され、私の中でも酒と米が結び付きました。最初は、マーケティングの発想、つまり生き残りのためでした。ディスカウントショップの出現で昔ながらの酒屋さんが減ってきていましたし、「何とかしないといけない」という危機感がありました。
酒造りはワインを参考にしたのです。フランスのワイナリーは、横の畑でブドウを栽培していて、ワインとブドウが密接な関係にありますよね。だったら、日本版ワイナリーのイメージで、酒蔵の周りで酒米を作れば差異化できる、そんな思いでした。
― 米の流通が自由化されたので、自作の酒米を直接酒造りに使えるようになったのも後押しになったのですね。
その通りです。最初は、酒米作りのノウハウも分からず、近所の農家さんに農機具を借りるような状態で、大変でしたね。その後、自社の田んぼを海老名、座間市、相模原市に広げ、7ヘクタールにまでなりました。また、地元の農家さんと連携し、現在は契約農家さん7軒、計46ヘクタールの田んぼで酒米を栽培しています。
― 今では、原料酒米の90%以上を地元産でまかなっている(2018年現在)と伺い、驚きました。地元に田んぼがあって、原料の酒米が育つ様子を見られるのは、安心感がありますね。
泉橋酒造のお酒造りでは、どこの田んぼの誰が作った酒米がどの酒になったのか、最初から最後まで分かるようになっています。そうそう、酒造りをしている社員は、「お米の粒には、作っている人の人柄が出る」と言っていますよ。
とんぼのマークは会社の使命の象徴
― 泉橋酒造のマークは、とんぼです。どのようなメッセージが込められているのでしょうか。
日本の農業に寄り添って生息しているアキアカネという赤とんぼで、低農薬栽培の象徴としてマークに使っています。生き物に目を向けると、自然と農薬を減らそうという気持ちになりますね。米作りは、空気、水、土を使うので、環境を汚さないことは会社の使命だと思っています。契約農家さんの化学農薬の使用量は、神奈川県の慣行栽培基準の6割減ですし、自社の田んぼの一部(1ヘクタール)では、全く農薬を使わない栽培も行っています。
― 泉橋酒造では、100%純米酒しか造っていないそうですね。純米酒にこだわるのはなぜでしょうか。
純米酒とは、お米と米麹(こうじ)と水だけで作られた酒です。戦前の日本酒は基本的にすべて純米酒だったのですよ。泉橋酒造では、2007年から100%純米酒です。米作りをしているうちに、「どうして日本には米が余っているのに、日本酒造りにアルコールを足さないといけないのか」と、納得できなくなってきたのです。そう思ってから、100%純米酒に替えるまでに、10年の歳月がかかりました。
田んぼの風景を次世代につなぐ
― このシリーズのテーマは「つなぐ」なのですが、ご先祖から引き継がれた家訓のようなものはありますか。
特に家訓というわけではありませんが、戦前、泉橋酒造では「満堂和気円満無量」というラベルを使っていたそうです。関東大震災の際には、酒米で炊き出しをしたと聞いていますし、当時から、みんなで和やかに円満にという意識があったのではないでしょうか。これは、今、農家さんと一緒になって米作り、酒造りをしている私が感じていることと、つながるものがあると思います。
― 橋場さんも農家さんの方々とのつながりが深く、みなさん和気あいあいと米作り・酒造りをしていらっしゃるイメージですよね。
そうですね。たまたま私の代で米作りをすることを決めたわけですが、この土地には農業のDNAがあって、もともと米と酒がつながる環境があったのだと思います。もちろん、酒は素晴らしく人をつないでくれますよ。「これは○○さんの米からできた酒だね」などと言いながら酒を飲んだら、すぐに仲良くなれますから。
― 酒造りは職人の世界で厳しいイメージもあります。後継者は育っているのでしょうか。
おかげさまで、泉橋酒造には、若い人たちから継続的に採用の問い合わせがあります。「米作りをしている泉橋酒造だから、ここで働きたい」という人が応募してくれるのでうれしいですね。
― 「酒造りは米作りから」の信念も、田んぼがある風景も引き継がれていきそうですね。
米作りは、農家さん、農協、市役所、神奈川県農業技術センターなどの協力で実現していますので、「田んぼは、自分だけのものではない」という思いがあります。そもそも、田んぼや景色は、ご先祖からの預かりものですからね。次の世代につないでいかなければならないと思っています。
これまでも、耕作放棄地といわれる荒れた土地を買い取って田んぼにしてきましたが、最近は「復田」に取り組もうとしています。地域の美観のために、田んぼではない土地を買い取って田んぼに復活させたい。田んぼではない土地を田んぼにするのは相当大変なのですが、こうした無謀なことをするのも、田んぼの風景を残したいという一心です。
― 今後、取り組んでいきたいことはありますか。
土と米と酒の関係を科学的に解明していきたいですね。米作りと酒造りが分離してしまった今の日本酒業界には、米と酒を結び付ける言葉がないんですよ。土と米を分析して、酒との関係を科学的に結び付けたい。今、農業技術センターと一緒に研究を進めています。
また、海外への輸出も促進していきたいと考えています。海外のアルコール市場において、日本酒はやっと導入期から成長期に移行した段階だといえます。泉橋酒造では3%ほどを香港、上海、シンガポール、ニューヨークなど海外に輸出しています。今後、まだまだ可能性はあると思っています。
― 海外の方に日本酒の奥深さを知ってもらえれば、これからどんどんファンが増えそうですよね。泉橋酒造の「とんぼ」ラベルが、国境を越えて世界各地に羽ばたいていく日が楽しみです。ありがとうございました。
次のコーナーでは、泉橋酒造の酒蔵に潜入したNexTalk編集スタッフのミキティーがレポートをお届けします!