小説『異類婚姻譚』で第154回芥川龍之介賞(2015年下半期)を受賞した本谷有希子氏。20歳で劇団を立ち上げ、以来、劇作家、演出家、小説家、またラジオのパーソナリティーとして幅広い活躍を続けられています。芥川賞受賞作の執筆の際には、それまでのスタイルとは異なる方法を取ったと本谷氏は言います。

力を抜いた2年半の日々

―芥川賞受賞、おめでとうございます。受賞された『異類婚姻譚』を執筆したきっかけを教えてください。

私は戯曲と小説の両方を書いていましたが、5年くらい前にそのスタイルを変えてみようと劇団活動を休止しました。「小説と向き合ったら、自分がどういうものを書くか知りたい」と言って、周りの反対を押し切って小説だけを書くことにこだわったのです。それまでは締め切りがありました。しかし、締め切りに突き動かされて書くのではなく、何かが自分の中に生まれるまで書くのを待ったら、どのようなものが書けるだろうかと思ったのです。

―何かが生まれるまで待つというのは勇気が要ることですね。

画像: 力を抜いた2年半の日々

それまで、締め切りを意識しながら、力を込めて、それこそ食事も睡眠も忘れて書いてきたのですが、そうすると、そういう生活の中でしか書けない小説になるのではないか、これからさらに長く書き続けても、それではうまくいかないのではないか、と感じるようになりました。書くというのはどういうことなのかを自問自答したとき、机に向かうのと、それとも寝転がりながら書くのとでは、異なるものになるのではないか――。そこまで考えるようになって、力を抜いて書くことも覚えたいと思ったのです。そうしたら、力を抜き過ぎてしまいました(笑)。

―力を抜き過ぎたらどうなったのでしょうか。

絶えず机に向かって書いてはいたのですが、小説として形にならないのです。書きたい気持ちはあるのだけれど、何を書きたいのか、どういうふうに書いていいのか、ずっと悩んでいて、書いては捨てることを繰り返してしまいました。でも、いわゆる作家のスランプのような言葉から想像される苦しさとはちょっと質が違います。何も生まれなかったら生まれなかっただけと思っていました。日々が過ぎるにつれて、「あれ? 今日も生まれないな」「今日も生まれない」と思っていたら2年半がたっていたのです。

冒頭の一文が生まれた瞬間

―そのような状況の中で、『異類婚姻譚』の冒頭の「ある日、自分の顔が旦那の顔とそっくりになっていることに気が付いた。」という一文は、どのようにして生まれたのでしょうか。

きっかけは、知人がパソコンで顔認証ソフトを使って画像を整理していたら、私と夫が同一人物として同じフォルダに仕分けされたという話を聞いたことです。自分では似ているとは思っていなかったので「面白い話だ」と感じたのが最初です。感情や偏見が一切介入しないはずのコンピューターが、データを同一人物としてカテゴライズすることの面白さ、それと一種の薄気味悪さも感じました。
実は、その話はしばらく忘れていたのです。忘れたつもりでいて、その後も何編も書いては捨てることを繰り返していて、もう何も出てこないとなったときに、「ある日、自分の顔が旦那の顔とそっくりになっていることに気が付いた。」という言葉が頭の中に生まれました。それから、あれっ、そういえば顔認証ソフトの話があったと気が付いたのです。

画像: 冒頭の一文が生まれた瞬間

―出来事を忘れていたのに、冒頭の一文が浮かんできたのですか。

話を聞いてから半年はたっていました。忘れていたと思っていたけれど、頭の中に引っかかっていたのですね。でもその一文の中に、すでに小説として書かれなければならないことがあると思いました。その瞬間に「これは書ける」と。顔が似てくるという薄気味悪さとか、忘れていたと思っていたことが言葉として生まれてくる違和感とかを増幅させていけばいいのだと。その時点で、この小説に対する手応えを感じていました。
実は、それまではパソコンを使って書いていました。以前から「原稿用紙はいいよ」と他の作家さんから聞いていて何度か試みたのですが、面倒になってすぐにやめていました。ちょうど執筆に取り組んでいるときに妊娠をしていて、椅子に長時間座るのがつらかったし、目を酷使したくないこともあって、楽な姿勢で書こうと原稿用紙に向かってみました。
そして最初に原稿用紙で書いたのが『異類婚姻譚』でした。手書きは挫折するかなと思ったのですが、10枚を超えたあたりから、何かが違うという感覚になったのです。

小説を書くことはスポーツに近い

―パソコンで書くのと原稿用紙に書くのと、何が違ったのでしょうか。

書いていくときの思考の方法が全く違いました。もし、『異類婚姻譚』をパソコンで書いていたら、冒頭の一文が同じでも全く違う話になっていたと思うのです。
「これは書ける」と感じたと言いましたが、プロットが浮かんだのではありません。むしろそういうイメージは、生まれた端から距離を置きました。次の一行はなるべく決めつけないで、なるべく流動的にさせて書きました。一行が終わった瞬間に、パッと捉えたことを書く。前もって自分が考えついたことは、絶対に書かない。頭で考えてしまったら、もうそこには行かない。原稿用紙だと、そういう書き方ができました。

画像: 小説を書くことはスポーツに近い

―物語の終わりのイメージも最後になって浮かぶのですか。

『異類婚姻譚』では、中盤くらいまで書いてきて、「この人たちは山に入って何かするのだろうな」という、山の情景は漠然とですが見えてきました。しかしあえて、そこから気をそらしていきました。はっきり見ながら書いても面白くない。私自身が一番飽きてしまう。わざとそれについて知らんぷりしながら、できれば脇道に入っていきたいのです。見えている道ではなくて、予想もしていなかった小道があったら迷わず飛び込んでいくと、書こうとしていたものと全然違うものになっていくのです。

―頭の中でイメージを描くことと、書くという行為とが格闘しているみたいですね。

私にとって小説を書くことは、スポーツとか運動に近い感覚があります。頭ではなくて、むしろ身体で考えるというのに近いのだと思いました。スポーツで“フロー”とか“ゾーン”の状態のときに最高のパフォーマンスが生まれると言いますが、書いているときにも訪れることがあります。自分が書こうとしていることよりもっと大きな、自分ではコントロールできない瞬間です。それは、自分が小説を書いているのではなく、小説に自分が書かされているという感覚です。主語が逆転する、その瞬間を待っているのです。

後編では、本谷氏にとって書くことはどのような意義を持っているのか、引き続きお聞きします。後編は2016年7月公開予定です。 メルマガ登録読者にだけお知らせするプレゼント情報もあるかもしれませんよ。ご興味のある方は下記ご登録画面に。

画像: 本谷有希子(もとや ゆきこ) プロフィール: 1979年石川県生まれ。「劇団、本谷有希子」主宰。2007年『遭難、』で第10回鶴屋南北戯曲賞受賞。09年『幸せ最高ありがとうマジで!』で第53回岸田國士戯曲賞受賞。小説では芥川龍之介賞に4回ノミネートされる(06年『生きてるだけで、愛。』、09年「あの子の考えることは変」、11年『ぬるい毒』、16年『異類婚姻譚』)。『ぬるい毒』(新潮社)は第33回野間文芸新人賞を受賞。13年『嵐のピクニック』(講談社)で第7回大江健三郎賞、14年には『自分を好きになる方法』(講談社)にて第27回三島由紀夫賞を受賞した。2016年、小説『異類婚姻譚』で第154回芥川賞受賞。

本谷有希子(もとや ゆきこ)
プロフィール:
1979年石川県生まれ。「劇団、本谷有希子」主宰。2007年『遭難、』で第10回鶴屋南北戯曲賞受賞。09年『幸せ最高ありがとうマジで!』で第53回岸田國士戯曲賞受賞。小説では芥川龍之介賞に4回ノミネートされる(06年『生きてるだけで、愛。』、09年「あの子の考えることは変」、11年『ぬるい毒』、16年『異類婚姻譚』)。『ぬるい毒』(新潮社)は第33回野間文芸新人賞を受賞。13年『嵐のピクニック』(講談社)で第7回大江健三郎賞、14年には『自分を好きになる方法』(講談社)にて第27回三島由紀夫賞を受賞した。2016年、小説『異類婚姻譚』で第154回芥川賞受賞。

芥川賞作家・本谷有希子氏に聞く「小説の力」 後編:人柄がにじむように1行1行書く(2016年7月12日号)

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