漫画家としてだけでなく、テレビのバラエティー番組出演、本の執筆、俳優での映画出演など、マルチタレントとして活躍される蛭子 能収さん。独特の語り口でお茶の間を和ませている蛭子さんは、今の活躍を自身でどのように捉えているのでしょうか。仕事での運について、蛭子さんならではの人との関わり方についてお話を伺いました。前編・後編に分けてお届けします。
時代の流れにマッチした自分がいた
― 蛭子さんは、まさにマルチタレントとして大活躍されています。今のお立場をどのように捉えていらっしゃいますか。
自分でも、びっくりしているところです。正直、売れているなあという実感は湧かないし、今、テレビに出させていただいているのも、たまたまだと思っています。本当は、漫画とかイラストだけを描いていたいのですけれどね。最近は、テレビの仕事が多くなっています。
― 蛭子さんは漫画家としてスタートしました。今の姿は想像していましたか。
漫画家として独り立ちする前は、会社勤めをしていました。若い頃は、漫画家になりたいという思いは持っていましたが、会社から給料をもらって生活するよりも、好きな漫画を描いて出版社からお金をもらって暮らせればいいなあというくらいの、漠然としたものでした。今のように、テレビに出てお金をもらおうなどとは、まったく思いもしていなかった。その意味でも野心とかはなくて、いろいろな人との出会いがあって、周りから何となく持ち上げられて、それに乗ってきたという感じです。
― 蛭子さんは、競艇がお好きです。競艇には運が大事だとおっしゃっていますが、仕事にも運が左右しますか。
運もあったのかなとは思います。でも、運をつかむのも実力のうちと言う人もいますが、自分自身が意識的に運をつかみとろうなどとは考えてもいなかったし、その実力を持っていたとは少しも思っていません。ただ、時代の流れに自分がマッチしたのかもしれないとは感じています。
ちょうど1980年ごろから、特にイラストの分野において、稚拙な画に味があるという意味で「ヘタウマ」という言葉が世の中に出てきました。その後に同じような意味で「素人の時代」という言葉も生まれました。意図したわけではないのですが、僕の描いている漫画は、まさにそのような時代に出たのです。
テレビ出演のきっかけは、舞台出演
― サブカルチャーが世の中に出てきた時代ですね。
当時、僕はサブカルチャーの総本山と言われた「ガロ」という漫画雑誌に描いていました。渡辺和博さんや南伸坊さんたちが、当時の「ガロ」を引っ張っていました。イラストレーターのみうらじゅんさんも「ヘタウマ」だと言われていましたね。コピーライターの糸井重里さんがこうしたサブカルチャー的な存在に市民権を与えてくれたのです。そういう方たちが、地下からモクモクと湧いて、花開いていきました。僕はその端っこにいたようなものです。
― 今挙げられた方たちも皆、当時どこかでテレビ出演をされています。蛭子さんもその流れで、テレビ出演されたのですか。
実はきっかけは、舞台なんです。劇団の「東京乾電池」を主宰している俳優の柄本明さんが、「ガロ」に描いた僕の絵を見て、舞台のポスター制作を依頼してきたのです。そして僕と会った柄本さんが、舞台に立ったらと勧めたのです。もちろん最初は断りました。「無理ですよ、無理ですよ」といった感じでね。映画を見るのは好きでしたが、演じたことなんか一度もない、まさに演技の素人でしたから。
でも僕は、最後まで断ることができないんですね。結局、説得に負けて舞台に立ち、そうしたらすぐに、テレビに出ないかという声がかかったのです。
頼まれたことを断れずに続けたから今がある
― 蛭子さんにいろいろなオファーが来るのは、やはり運だけではない何かタレント性があるのだと思います。
たぶん、頼みやすいのだと思います。頼みやすいから仕事が来る。そしてこれまでずっと、人から何かを頼まれたときに、むげに断らず引き受けてきました。「それ、じゃあ、やります」と何でも引き受けてきたのがよかったのかもしれません。
― 蛭子さんは80年代の「ヘタウマ」の時代を越えて、今もタレントとして活躍されています。長続きする秘訣は何でしょうか。
我慢強くて、少々痛い目に遭っても、やり続けてきたということではないでしょうか。やっぱり、本業以外のことをやるのが、他の方たちは嫌だったのではないかな。僕もテレビに出ることがそれほど好きではなかったけど、頼まれたことを断るのも苦手だったので、結局出続けて今になっているということですね。
― 当時、蛭子さんがバラエティー番組に出られた時は、大変印象的でした。
印象的だったというのは、ずいぶんと表現を丸くしていますよね。きっと変なやつが出ているなと思ったのではないですか。自分では、特別なことをしているつもりはなかったのですけれどもね。
今でこそ振り返ることができるのですが、テレビ局では当たり前の、出演者同士の挨拶もしなかったりとか、漫画の原稿が入っている自分の鞄をなくしてしまうのが嫌で、スタジオに持ち込んでひんしゅくを買ったりとか、変なやつだなあと思われていたんでしょうね。
― 挨拶をしなかったのは、自分はタレントではないという思いがあったからですか。
とんでもない。自分はタレントではなく漫画家だ、だから迎合しないぞ、といった意識を持っていたわけではありません。理由はもっと簡単。僕自身が挨拶されると応対に困るなあと思っていたから、他の出演者たちも挨拶されるのが嫌なのだろうなと思っていたのです。
ビートたけしさんや所ジョージさんにも挨拶をしなくて、ずいぶんと周りからは常識のないやつだと思われたかもしれません。もちろんスタジオで会えば挨拶をしますよ。
― 自分の態度が変なのかもと思ったのはいつごろでしょうか。
2、3年前ですね。あれ? 浮いてる? と思いました。
―ずいぶん時間がかかりましたね(笑)。ところで昔から、蛭子さんの話は自虐ネタが多かったように思います。
それは、今も意識的にそうしています。成功した話よりも、失敗した話のほうが面白くないですか?ですから、なるべく自分が失敗した話をするようにしています。自分が華やかな部分はあまりしゃべらないようにして、みじめな部分をよくしゃべるようにしているのです。
後編では、仕事において重要な人間関係について、蛭子さんならではの人付き合い方法をお聞きします。登録読者の方にだけお届けするプレゼント情報もありますのでお楽しみに。