「トヨスの人」第12回(2025年7月24日号)
明治15年(1882年)に日本橋魚河岸にて創業し、築地市場を経て豊洲市場で5代にわたり暖簾を守ってきた「大力商店」。140年を超える老舗の仲卸として、割烹や料亭、日本料理店、近年では寿司屋や海外販路の開拓まで時代の変化に合わせて進化を遂げてきました。長年市場の最前線に立ち続ける一方で、家族のバトンリレーには、幾つもの葛藤や、世代ごとの決断がありました。「トヨスの人」第12回では、そんな大力商店の5代目・原田勝さんに、家業を継ぐまでの思いや代々続く商いの工夫、そして豊洲から全国・世界へ届ける魚へのこだわりを伺いました。

この仕事を継ごうとは、思っていなかったんです。父親の疲れた背中しか見てないんで。大学時代、夜遅くに帰ると、ちょうど親父が市場へ出勤するところで「肩を叩け」とか「背中を揉め」って言われました。よく、肩を叩きましたよ。僕は3人兄弟の一番下で、3つ上に姉、5つ上に兄がいるんですけど、僕から見て2人は自由人。ある時点で「兄はこの仕事を継がないんだな」と感じていました。僕も大学を卒業すると、外資のアパレル会社に就職しました。社会人になって3年経ったころ、祖母が亡くなったんです。その時の葬儀が、あまりにもすごくて。80歳過ぎのごく普通のおばあさんと思っていた祖母だったのに、弔問には700人くらいが来てくれた。市場の関係者や、取引先のお客さまです。あんな葬式見たことない。あの時、自分がやらなきゃ、と思ったんです。葬儀が終わってすぐ、アパレル会社を辞めました。33年前、25歳の時です。

画像1: 創業は明治15年。老舗の誇りを未来へ:豊洲市場「大力商店」5代目・原田勝さん

「大力商店」の創業は、明治15年。初代の力松は、僕の曾おじいさんです。神奈川県の平塚出身で、日本橋の魚河岸の魚屋で奉公した後に独立しました。2代目にあたる祖父は、父が18歳の時に他界。未成年は後を継げない、という決まりがあったので祖母が3代目になって、父が20歳になるタイミングで4代目を継ぎました。父は映画が好きな芸術家肌の人間だったんですけど、若くして店を継ぐしかなかったんですね。小さいころは体が弱かったらしく、車で移動する時には戻しちゃっても大丈夫なように、ばあやが常に洗面器を抱えてくっついていたらしいです。ばあやとお抱え運転手がいる、お坊ちゃま育ちだったんです。

画像: 得意先ごとに春子鯛(かすごだい)を袋詰めする原田勝さん。瞬時にその客の求めるものを選び出す

得意先ごとに春子鯛(かすごだい)を袋詰めする原田勝さん。瞬時にその客の求めるものを選び出す

大力商店は、当時から高級な魚を専門に取り扱う店で、2代目の祖父は商売上手でした。父が幼かったころは、自宅にお相撲さんや競馬の騎手たちがよく出入りしていたらしいので、いわゆるタニマチだったのかなと思います。今でこそ、お客さまから注文を受けて魚を配達することを仲卸がしてますけど、昔はそうじゃなかった。お客さまが直接買いにくるのが、市場でした。注文の品を届ける店を「茶屋物屋(ちゃやもの)」って呼ぶんですけど、市場の中で最初に始めたのがうちだったと言われています。それを引き継いだ父は、浅草の料亭に夜、注文を取りに行くんだけど、忙しくてなかなか注文がもらえない時には洗い場を手伝った、なんて言ってましたね。

画像: 魚の本数と目方を記入した紙も添えている

魚の本数と目方を記入した紙も添えている

画像2: 創業は明治15年。老舗の誇りを未来へ:豊洲市場「大力商店」5代目・原田勝さん
画像: コハダは、塩水に氷を入れた状態でビニール袋に詰める。上氷(魚の上に氷を乗せる)、下氷(魚の下に氷を置く)や、吸い取り紙で巻くなど魚の種類で扱い方もいろいろ

コハダは、塩水に氷を入れた状態でビニール袋に詰める。上氷(魚の上に氷を乗せる)、下氷(魚の下に氷を置く)や、吸い取り紙で巻くなど魚の種類で扱い方もいろいろ

親父は、外では温厚な人で通っていたけど、瞬間湯沸かし器みたいなところがあって僕にとっては怖い存在でした。子どものころ「野球をやりたい」って言うと、「だめだ」と反対されたんです。スポーツが嫌いな人で、父がいるとテレビで野球中継も見られない。小学4年の時です。初めてのお泊り遠足で、友達はみんな野球のユニホームをパジャマにするという話になったんです。僕も買ってもらいたくて、親父と一緒に新宿の伊勢丹に行きました。当時、僕が着る洋服はすべて父が買ってくれたんです。というか、父が気に入った服しか買ってもらえない。オシャレ好きな親父が伊勢丹でコーディネートしてくれる服を、着せ替え人形みたいに着てました。僕はファンだった阪神タイガースのユニホームが欲しかったんです。でも、「だめだ」の一言。「デザインが悪い」って。え? ですよね。仕方ないから、あまり好きじゃないけどジャイアンツのを差し出すと、また「だめだ」。結局、端から順に見せていって全部だめ。最後に「これなら買ってやる」と父が言ったのが、近鉄バファローズのユニホームでした。「デザインがいい」と。テレビ中継されないからよく知らないパ・リーグのチームですよ。正直、買ってもらうか迷いました。遠足の日の夜は「いつから近鉄ファンになったんだよ」って皆に驚かれてね、あれは僕の中の「パジャマ事件」です。親父は怖くて、決して逆らえない存在でしたね。

画像: 得意先の名前を印刷した注文票。信頼の証でもある

得意先の名前を印刷した注文票。信頼の証でもある

画像3: 創業は明治15年。老舗の誇りを未来へ:豊洲市場「大力商店」5代目・原田勝さん
画像: その日の配達、発送分を得意先ごとに箱詰めし終えて、ひと息つく原田さんとスタッフの堀さん。店に来る客のために店頭に魚を陳列し始める

その日の配達、発送分を得意先ごとに箱詰めし終えて、ひと息つく原田さんとスタッフの堀さん。店に来る客のために店頭に魚を陳列し始める

大力商店に入ってからの8年間は、ひたすら配達です。取引先を回ると、いつも「遅いぞ」って怒られる。当時、扱う魚はどれも競りで仕入れていたので、競った後じゃないと魚が手に入らなかったんです。僕の出勤も朝5時でした。ただ、どうしても時間に追われてしまう。料理屋さんだって営業に間に合わないと困るから、苛立って仁王立ちして待ってる。辛かったですね。それもあって僕らの開始時間を朝4時、3時、と少しずつ早めていったんです。仕入れが、競りから相対(あいたい)へと変化していったことも大きいですね。多少値段が高くなっても、卸との個別の交渉で魚を手に入れられるようになって、作業がスムーズになりました。

配達をしていたころは、なかなか魚を触らせてもらえませんでした。番頭さんたちが強くて、「魚をわかんないヤツに、触らせちゃだめだよ」って、社長だった父に言っているのが聞こえてきたこともあった。父は経理畑の人間で「帳場」が持ち場。実際に魚を競り落として売るのは番頭さんたちです。当時5人いた番頭さんの中には、地方から出て来てうちに住み込みで働いていた丁稚(でっち)上がりの人もいて、みんな相当の目利き。彼らから、いろいろ教わりましたよ。でも厳しかった。

画像: 「魚を見る時は、太っているかお腹がしっかりしているかを見ることが大事」と原田さん

「魚を見る時は、太っているかお腹がしっかりしているかを見ることが大事」と原田さん

画像4: 創業は明治15年。老舗の誇りを未来へ:豊洲市場「大力商店」5代目・原田勝さん

昔の番頭さんたちが引退していく中で、僕らのやり方に変えていったんです。というのも、父の若かったころとは状況が変わって、商売が難しくなっていたんです。僕の姉が店の帳場に入っていたので、経営が厳しいことはわかっていました。でも、僕ら姉弟が何を言っても親父は聞く耳を持たない。「オレはオレのやりたいようにやる。お前の代になったら、好きなようにやれ」って。このままでは店が潰れる、と迫って、最後は親父を追い出したような形で社長を退いてもらいました。そうするしかなかったんです。

画像5: 創業は明治15年。老舗の誇りを未来へ:豊洲市場「大力商店」5代目・原田勝さん

2009年、僕が5代目になりました。うちはもともと割烹や料亭、日本料理屋をお客さまに持っていたんですけど、寿司屋の時代がくる、と見越してそちらに営業をかけていきました。海外にも販路を広げました。そうして、厳しかった時代を乗り切ることができましたけど、改めて思うのは、父が何とか守ってくれたから今がある、ということです。親父もきっと大変だったろうと思います。

画像: 原田さんが手書きした客からの注文表を最終確認。その日の産地と目方を赤字で書き込んでいる。「そこまでやれば、間違えることがないからね」

原田さんが手書きした客からの注文表を最終確認。その日の産地と目方を赤字で書き込んでいる。「そこまでやれば、間違えることがないからね」

画像6: 創業は明治15年。老舗の誇りを未来へ:豊洲市場「大力商店」5代目・原田勝さん

今、僕の仕事始まりは朝じゃなくて夜10時です。事務所のFAX、留守電のメッセージ、携帯メールやLINE、いろんな方法で注文が入ってくるので、それを紙に書き写す作業から始めます。超アナログですけど、これが一番確実なんです。うちは「コハダ1本」の注文も受けますよ。「春子鯛の片身を一貫で使いたいから、その大きさで出してくれ」って言われたら、その店の1貫の大きさを知っていなくちゃいけない。だから僕は、しょっちゅうお客さまの店に顔を出すんです。実際に食べないとわからないから。その人の好み、求めているものを自分で感じ取らないといけない。まあ、行くと魚の話が止まらなくて、いつも店主と盛り上がっちゃうんですけどね。

店によって、求めているものはそれぞれです。多くの人は、太って脂ののった魚がいいって言うけど、中には脂身のない味をしっかり感じられるやつにしてくれ、という人もいる。例えば、コハダは今の時期、お腹に子どもを持ってて脂がのってないんです。脂ののりで選べば、佐賀県産です。ただ、佐賀は海苔の養殖が盛んなので、魚から海苔の香りがするって言われます。余計な香りだからって、嫌がる人もいる。好みはそれぞれ違います。小さいサイズがいい人もいれば、身が柔らかいのがいい人、しっかりしたのがいい人も。皆の好みが頭に入った状態で、注文を紙に書き写すんです。大力商店に注文を出せば間違いない、と思ってもらえるような信頼関係を大切にしています。

夜のうちに、豊洲市場に次々とトラックがやってきます。魚が並び始めたら、まずは市場エリアに見に行くんですよ。入荷状況を頭に入れたら、事務所に戻ってまた注文の続き。うちは、泳いでいる活魚は競りで買って、他は卸会社とのやり取りの相対で買います。3時ごろには欲しい魚も手に入るので、注文分をお客さまごとに揃えて箱詰めする作業に入ります。毎日、時間との闘いですよ。香港便は、朝5時に出るトラックに乗せます。羽田空港に近いからこそなんですけど、その日の夜には香港の店で料理で提供されるんですよ。これは本当に凄いと思う。配達分をさばけたら、ようやく店頭に魚を陳列できます。そこからは、直接店に買いに来てくれたお客さまとの時間です。

画像7: 創業は明治15年。老舗の誇りを未来へ:豊洲市場「大力商店」5代目・原田勝さん

休みの日、一番の楽しみは妻とうまいもんを食べること。やっぱり、寿司が好きですね。僕が小学生のころ、母親が事務を手伝っていて毎日帰りが遅かったんです。そんな時、僕だけ「隣で食べてなさい」って言われて、自宅の隣の寿司屋で夕飯を食べていたんですよ。カウンターに座って、握ってもらうのは赤身のまぐろ。そればっかり。大好きだったんです。毎日毎日、赤身のまぐろでした。寿司屋のおじさんがいい人で、野球の観戦チケットをもらったな。親父は行かないから、友達と観に行きましたけど。この年になるまでに一度だけ、「ああ、この味だ」って舌の上であの日の味が蘇って感動したことがあります。それをまた思い出したくて、あちこちの店へ行くんです。

【トヨスの人のグッとポイントは「チームワーク」】

「うちはチームワークがいいんです」と若手スタッフが言う通り、絶妙なフットワークでプロの仕事をする「TEAM DAIRIKI」。

画像8: 創業は明治15年。老舗の誇りを未来へ:豊洲市場「大力商店」5代目・原田勝さん
画像9: 創業は明治15年。老舗の誇りを未来へ:豊洲市場「大力商店」5代目・原田勝さん
画像10: 創業は明治15年。老舗の誇りを未来へ:豊洲市場「大力商店」5代目・原田勝さん
画像: 撮影は5月中旬。夏の旬を迎えるアナゴをさばく

撮影は5月中旬。夏の旬を迎えるアナゴをさばく

画像: 帳場を仕切る女性たち。お金のやりとりは、すべてここで

帳場を仕切る女性たち。お金のやりとりは、すべてここで

画像: 神経締めをする

神経締めをする

画像11: 創業は明治15年。老舗の誇りを未来へ:豊洲市場「大力商店」5代目・原田勝さん
画像12: 創業は明治15年。老舗の誇りを未来へ:豊洲市場「大力商店」5代目・原田勝さん
画像13: 創業は明治15年。老舗の誇りを未来へ:豊洲市場「大力商店」5代目・原田勝さん
画像14: 創業は明治15年。老舗の誇りを未来へ:豊洲市場「大力商店」5代目・原田勝さん
画像: お揃いのTシャツには「TEAM DAIRIKI」のロゴが刺繍してある

お揃いのTシャツには「TEAM DAIRIKI」のロゴが刺繍してある

写真:阿部了 文:阿部直美

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