64歳で保育士の資格を取得し、70歳まで保育園で働き続けた石浜繁子さんは、現在81歳。2019年には自宅の居間を改装してつくった絵本の図書館「えほんのおうち ゆめのき文庫」を開設し、子どもたちに絵本の読み聞かせを行っています。「自分の時代とは環境が変わり、子育てをしている女性が孤立している」と話す石浜さん。ゆめのき文庫は今、孤独なお母さんたちの居場所になっています。親子と地域をつなぐ石浜さんの人生の軌跡と、ゆめのき文庫に込めた思いを聞きました。
夫を追いかけて大阪へ。54歳から保育園で働き始めた
― 保育士になるまではどんなお仕事をされていたのでしょうか。
私は東京都の月島で生まれました。戦争が終わったのは3歳のときです。中学生までは栄養失調で、ガリガリでした。身体検査が一番つらくて、栄養失調の人には「肝油」をスプーンで飲まされるんです。おそらく皆さんが想像する以上の貧乏生活で、勉強も満足にできず、どん底と言えるような子ども時代でした。それでも耐えられたのは、みんなが同じ状況だったから。今みたいに、1人だけ置いてきぼりになったり孤立したりすることはなかったんです。
中学を卒業後、商社の電話交換手として働きました。当時は花形の職業です。自分のお金でご飯を食べられ、社員食堂も無料で使える。天国でしたね。そこで2年ほど働き、17歳で結婚を機に大阪に出てきました。
大阪に行った主人を追いかけて、家族の反対を押し切って半ば駆け落ちのような結婚でした。「私がついていないとこの人はダメになる」と思って。今思うと同情結婚ですね(苦笑)。4畳半のアパートから新婚生活が始まりました。主人が変な見栄を張って「女には働かせられない」なんて言うので、私は外に働きには行かず、造花を作る内職をしていました。
― お子さんも生まれて、育児と内職をして過ごされていた。
そうです。ただ、ボランティアなら主人は文句を言わなかったので、2人の子どもを育てながら50歳くらいまでずっとボランティア活動をしていました。PTAや町会の活動もしましたし、一番大きかったのは公民分館(地域住民が中心となり、地域の会館や学校などを利用して運営する組織のこと)の主事を任されたこと。
誰もやりたがらないので、仕方なく引き受けたんです。でも、主事って今思えばすごい肩書きですよね。周りからは「あなたよく引き受けたわね」なんて言われて嫌がらせもたくさん受けました。私が社会のことを何も知らないからバカにされるんだと思って、分からないことは全部学校の校長先生や教頭先生などに聞きに行き、たくさん勉強しました。
実は、28歳くらいの時に、一度主人に通信教育でもいいから高校に行かせてくれと頼んだことがあるんです。でも、「今さら女が勉強して何になるんだ」と反対されました。だから、60歳までは公民分館の仕事を通して、自分が出来ないことをやっている人は、全て先生という気持ちで学びました。そして、60歳になったら絶対に夜間でもいいので高校に行きたいと思っていました。当時の私にとって、公民分館は無料でいろいろなことを教えてもらえて、お友達と仲良くできる貴重な居場所だったんです。
― 保育園で働くようになったきっかけは何だったのでしょうか。
公民分館の活動をしていた時に、近所の人から保育士の資格がなくても働ける、保育園のパートの仕事を紹介されたのがきっかけです。何の経験もありませんでしたが54歳からパートタイマーとして保育園で働き始めました。当時は主人が定年退職を迎える時期だったのと、自宅の土地を購入したタイミングでお金も必要だったので、渡りに船ですね。主人もその時は許してくれました。
働いたのは子どもたちが200人くらいいる、豊中市立の最も大きな保育園でした。でも、1週間ほどで耐えられなくなり、辞めようと思いました。当時は人手が足りないなど園の環境が悪く、おむつの臭いが充満していて、食事もできないくらいひどかったんです。でも、紹介してくれた人の顔をつぶすことになるから簡単には辞められません。あと1週間、あと1週間と働いているうちに、子どもたちに「ちぇんちぇ(先生)」と呼ばれるようになり、かわいくなってきたんです。
― ご自身にも2人のお子さんがいます。子育ての経験が役に立ちましたか。
とんでもない。長女の時は、友達の家に遊びに行くのにもドリルを持たせるような教育ママでした。子どもが甘えてきても、「もう〇歳でしょ、ちゃんとしなさい」と叱る。一番かわいい時期を逃しているんですね。次女の時は一転して、今度は放任です。まったくいい母親ではなかったと猛省しています。だから、保育園で働いて初めて私は子育てを学んだのです。
本気で子どもたちと向き合いたい一心で、64歳で保育士試験に挑戦
― 保育士の資格を取ろうと決意されたのはなぜですか。
保育園で働き始めてしばらくすると、0歳時クラスの担当を任されました。そこで出会った子どもたちは驚くべきスピードで成長していきました。やがて言葉を覚えると、嬉しかったことや悲しかったことなどを教えてくれるようになった。そこで、子どもたちは、自分の想像よりもはるかに賢く、大人たちをよく見ていると実感したんです。
子どもたちは資格もない私を頼ってきてくれる。生半可な気持ちで子どもと向き合うわけにはいかない。自分もきちんと資格を取得し専門知識を身に付ける必要があると考えました。そこで、保育士の資格を取得しよう、と決めたのです。
― 中学を卒業していれば保育士の資格は取得できるのですか?
いいえ、高卒以上しか試験は受けられません。そこで保育の専門学校や保育士試験の問い合わせ窓口に電話をして相談したら、保育所などの児童福祉施設で5年以上、かつ7200時間以上の実務経験があれば、保育士試験の受験資格を得られることが分かりました。
その時すでに実務経験は満たしていたので、一念発起して保育士試験にチャレンジすることを決めたのです。
でも、その時点で年に1回しかない保育士試験まであと2カ月しかありませんでした。保育園の仕事をしながら家の近所にある公的施設の学習室に通いつめ、中高生に交ざって猛勉強の日々。休日には1日10時間は勉強しましたね。
横文字に苦手意識があったので、読めない単語は自分の孫ほど年の離れた学生に声をかけて教えてもらいました。つらい勉強を頑張れたのは、保育園の子どもたちがいたからです。私が一生懸命勉学に励む姿を通して、目標に向かって頑張る大切さを子どもたちに伝えたいと思っていました。
ところが、無理がたたって試験の直前に発熱してしまい、40度の高熱の中、試験に臨むことになりました。1回目はあえなく不合格でしたが、取得できた2科目は翌年の試験に繰り越すことができます。2回目の試験では、絵画と読み聞かせは満点に近い点数を取り、無事に合格することができました。こうして私は64歳で保育士になり、70歳まで働きました。
「孤育て」から親子を守るため、絵本の図書館を開設
― 「ゆめのき文庫」創設の経緯を教えてください。
私は保育園で働きながら多くの母親を見てきました。例えば、仕事を頑張っているお母さんが子どもを迎えに来ると、真っ先に「ありがとうございます」と先生に駆け寄るんです。それで、ある時私はお母さんに言ったんです。「子どもはお母さんが思っているほど物分かりはよくありませんよ。ずーっとお母さんお母さん、と泣いています。だから、先生にお礼を言う前に、まずは子どもを抱き上げてください」と。そうして、お母さんが真っ先に抱きしめてあげるようになったら、その子は泣かなくなりました。
保育園には虐待を受けた子どももいました。それはもう、悲惨なんてものではない。そういった現状を目の当たりにして、たった1人で育児に追われ「孤育て」になっているお母さんたちがほっとできる場所が必要だと思いました。
そこでお母さんと赤ちゃんの居場所をつくることにしたのです。2019年に思い切って自宅の居間に絵本を並べ、ゆめのき文庫をつくりました。いま、絵本は2,000冊程度。お母さんたちには、「もし行くところがなかったらここに来てください」と伝えています。
― ゆめのき文庫にはどんなお母さんがやってくるのですか。
例えば、結婚するまでバリバリ働いていた1人のお母さんがいます。写真を見せてもらったけれど明るい表情でした。でも今は育児でノイローゼのようになってしまっている。
旦那さんは朝7時に仕事に出たら23時まで帰って来ない。よく泣く子どもで、ご近所の手前、日中でも窓を全部閉めて過ごしている。近くのコンビニに買い物に行ったときに、「いらっしゃいませ」と店員さんが言うのを聞いて、「今日、初めて人間の声を聞いた」と言うのよ。嘘でしょうと思うじゃないですか。今時、携帯電話もあって情報もいくらでも手に入るのに。
そんなお母さんたちがここに来て、みんなと会って話して、「本当に助かっています」「孤独にならずにすみました」と言ってくれる。10時に来て、18時までここにいる親子もいます。
― 自治体や地域の人たちと一緒になって活動をされています。
私が若い頃とは社会の構図がガラッと変わりました。女の人が家にいて子育てをしていた時代から、いまは共働きで夫婦が二人で子育てをする時代です。保育園で働いていたときから何かしたいという思いはありました。
保育園を辞めてからは、保育士とは違う形で提言していけるなと思って、市役所に対して「地域にはいろんな家庭があります」「何ができるか皆さんでお考えになったらいかがですか」と言いに行ったんです。もしかしたら、保育園や家庭とはまったく関係のない第三者がすごく良い意見を持っているかもしれない。みんなを巻き込んで取り組めば、子どもたちが救われるのではないかと思いました。働き掛けした甲斐があって今いろいろなプロジェクトが動いていて、庄内の街はこれから絶対に良くなると期待しています。
― これから先、石浜さんが望むことはどんなことですか。
100歳まで自分の足で立って生きていられたらいいですね。私はただの主婦ですが、元気だけは人にあげられると思っています。もう役職はいらないので、地域のおばちゃんとして、困ったときに駆け込んでくれる場所として、地域の人たちとこれからもずっと関わっていたいと思います。
この年になってもまだ気づきがたくさんあって、教えてもらうことがたくさんあるんです。人生に勉強の終わりはない。苦労もしましたが、反省はするけど後ろは振り返らないで生きてきました。それが今全部自分に返ってきています。みんなから幸せをたくさんもらっているので、人生まんざらでもないんですね。
だから、いま暗闇の中にいる若い人たちも、必ずいいことが先に待っています。何人にも出会わなくていい。誰か1人からでいいから、刺さる言葉をもらったり見たりした時が、前に進むチャンスなんですよ。