福島駅から車で約30分。丘陵地帯を登り切った山あいに広がる「ふくしまスカイパーク」(以下、スカイパーク)。「レッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ」において2017年総合優勝に輝いたパイロット、室屋義秀選手の練習拠点としても知られています。スカイパークの指定管理者、NPO法人ふくしま飛行協会の斎藤喜章理事長に、スカイパークの歩みについてお話を伺いました。斎藤さんは何をツナイダのか?

飛行場閉鎖の危機を乗り越える

――ふくしまスカイパークは、エアレースで世界一になった室屋義秀選手の練習拠点として知られています。現在、スカイパークではどのような活動が行われているのですか。

斎藤 室屋義秀選手の練習拠点として、テレビなどで紹介されたこともあって、スカイパークは広く知られるようになりました。主な活動として、曲技飛行競技会やオートバイのドラッグレースなどを開催したり、福島市ともも祭り、りんご祭りを共催したり、緊急時の防災ヘリの拠点として機能したりと、幅広く活動しています。

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――スカイパークはもともと、農産物の輸送を目的とした農道離着陸場としてスタートしていたのですよね。

斎藤 開場以来、農道空港としての活用はじり貧状態でした。私たち民間パイロットも飛行場を利用していたのですが、2002年にその受け皿となっていた唯一の飛行場利用会社が撤退します。このままでは飛行場そのものが閉鎖されてしまうのではという危機感が出てきたのです。

そこで、自分たちが空を飛ぶ場所を確保するために、ふくしま飛行協会というNPO法人を設立しました。もう一つ本心を言うと、当時、日本ではまだ広く知られていなかったエアレースを頑張っている室屋選手の練習場所を確保したいという願いもありました。

――室屋選手の存在は大きかったのですね。斎藤理事長が室屋選手と出会うきっかけはいつだったのですか。

斎藤 2001年頃でしょうか。曲技飛行をしている人がいるという話を聞き、妻と2人でスカイパークを訪れたのがきっかけです。何度か見に行くうちに、そのアクロバットな飛行と室屋選手の人柄に引き込まれていったのです。いつの間にか私自身が室屋選手のファンになっていました。その時はまだ、私は一介のサラリーマンです。単に曲技飛行を見るのが好きという福島市民にすぎませんし、パイロットの免許も持っていませんでした。

――えっ、パイロットの免許をもともとお持ちではなかったのですか?

斎藤 免許を取得したのは2002年で、50歳になる年です。

――50歳になる年にパイロットの免許を取られたのですか。きっかけは何だったのでしょうか。

斎藤 妻の「私もパイロットの免許を取りたい」という一言です。その言葉に触発されて、「それなら僕が隣に乗せて飛んであげる」と言って取得しました。それから人生が大きく転換していきます。まさか今のような人生を歩むとは思ってもみませんでした。

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人が豊かになれば自分も豊かになる

――パイロットの免許を取得後すぐに、今のNPO法人を立ち上げられたことになりますね。相当な覚悟があったと推察します。

斎藤 実際には取得前から立ち上げの準備をし、1年間ほど時間を要しました。賛同する人を募ったところ、東北、北関東の民間パイロットを中心に25人ほどが集まりました。その中に室屋選手も参加してくれています。

――NPO法人を設立してから3年後にスカイパークの指定管理者となるのも、急だったのではないですか。準備も大変に思います。

斎藤 福島市からは、管理を任せるに当たってふくしま飛行協会はどのようなビジョンを描けるのかという課題を与えられました。そこで、農道空港として出発したのだから、この飛行場を拠点にした農業振興を柱にしていこうと考えました。例えば、イベントを開催する際に、ふくしまの農産物をアピールする場としての機能を持たせようとしたのです。飛行場の脇にログハウスを建て、福島の農産物を素材にした料理を提供するレストランもつくりました。

私自身は、ふくしま飛行協会が指定管理者となる前年の2005年に、それまで勤めていた会社を退社して、スカイパークの運営に専念することにしました。

――50歳を過ぎて会社を辞められたのですか。退路を断ってまでして、自分の人生をふくしまスカイパークにかけるのは驚きです。斎藤理事長ご自身の中にどのような動機があったのかお聞きしたくなります。

斎藤 子どもの頃から、「無私」の気持ちを大切にすることを親から教わってきたのが大きかったと思います。周りの人のために動けば、必ずそれは自分に戻ってくる。人が豊かになれば自分も豊かになるという考えが、自分の中に染みついている気がします。

ここは高速道路からも近くてアクセスしやすい立地にあります。室屋選手や民間パイロットだけでなく、みんなに利用してもらえる飛行場だと思ったからこそ、飛び込んでいけたのです。

――ふくしま飛行協会が指定管理者になって全面的にバックアップするようになってから、室屋選手の活躍は、目覚ましいものになります。

斎藤 「地べたのほうは私がやるから、君は空の王者になれ」と室屋選手と語り合ったこともありました。地上の面倒なことは自分が引き受けて、彼には大空のアスリートとして活躍してもらいたかった。地上と大空でそれぞれが王者になる。そういった気持ちでした。

室屋選手は2008年、飛行機のF1と言われる「レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ」でアジア人として初めてパイロットに抜てきされました。2016年の千葉大会で初優勝し、翌2017年には年間を通してのチャンピオンになり、マスコミでも広く紹介されました。室屋選手の成長を近くで見ることができるのは、1人のファンとしても本当に楽しみです。

画像: 格納庫にはプロペラ機が何機かあり、飛び立つ日を待っている(※室屋選手の機体ではありません)

格納庫にはプロペラ機が何機かあり、飛び立つ日を待っている(※室屋選手の機体ではありません)

「多目的」ではなく「多面的」な利活用を図る

――空港の運営において、情報システム会社での経験を生かした点はありますか。

斎藤 農道空港を維持するためには、空港の信頼性や安全性を高める必要があると考えました。サラリーマン時代に勤めていた会社の個人情報保護マネジメントシステム(JIS Q 15001)を取得した経験を生かし、空港の運用品質管理システムにまで拡大させたことで、活動の幅が広がったと思います。

――2011年3月の東日本大震災では、相当な被害を受けたと聞いています。

斎藤 地滑りで滑走路が40mほど崩落しました。そこで、市役所で福島市と被害の情報を共有し、復旧のための図面をその場で引いて、必要な資材をいち早く調達することで、早期復旧を実現しました。災害からの復旧には、情報共有とスピードが大切だと痛感しました。

早く復旧できたおかげで同年の6月から9月にかけて、支援物資のマッチングやヘリコプターの燃料補給などロジスティクスの中継基地として活用することもできました。実は室屋選手も、震災直後は世界選手権への出場も諦めたと聞いていましたが、無事送り出すことができました。

――今後、スカイパークでどのような活動を進めていきたいと考えていますか。

斎藤 東日本大震災の経験を生かしたいと思っています。災害救助は初めからふくしま飛行協会の定款にありましたが、今後は災害時だけでなく、平時においても防災に役立てるようになりたいと考えています。例えば自衛隊や全国の警察、消防などの防災ヘリコプターの訓練場としても利用してもらえないかと検討しています。最近、防災ヘリの事故が続いています。ここで飛行技術を磨いていただければと思っています。

今後も多目的ではなく、「多面的」に飛行場を利活用していきたいと考えています。何でもやるという多目的な利活用ではなく、地域の農業振興を軸に据えた多面的な利活用です。農業振興を図ることは、ぶれずに進めていきたいと考えています。

――飛行機で大空を駆け巡るという夢と、福島の農産物の振興というミッションが1つになって、スカイパークが地域の空港の希望となることを、私たちも応援したいと思います。ありがとうございました。

画像: NPO法人ふくしま飛行協会 理事長 斎藤喜章(さいとうよしあき) 1952年福島県生まれ。1972年福島県中央計算センターに入社。主に公共システム部門、医療部門のシステム開発に携わる。2003年、NPO法人ふくしま飛行協会を設立し、理事長に就任。2005年に福島県中央計算センターを退社し、ふくしまスカイパークの運営に専念する。現在、福島大学客員研究員(地域づくり・街づくり)社会企業担当も務める。

NPO法人ふくしま飛行協会 理事長 斎藤喜章(さいとうよしあき)
1952年福島県生まれ。1972年福島県中央計算センターに入社。主に公共システム部門、医療部門のシステム開発に携わる。2003年、NPO法人ふくしま飛行協会を設立し、理事長に就任。2005年に福島県中央計算センターを退社し、ふくしまスカイパークの運営に専念する。現在、福島大学客員研究員(地域づくり・街づくり)社会企業担当も務める。

次のコーナーでは、ふくしまスカイパークの見学レポートをお届けします。

関連リンク:斎藤理事長が取り組む「包み紙普及プロジェクト」~”ほんとの空は希望のブルー”~

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