目の前にあるヒット商品を否定する
―鈴木さんが赤城乳業に入社されたきっかけを教えてください。
私が赤城乳業に入社したのは1970年です。今でこそ、売上高が400億円を超え、「赤城しぐれ」や「ガリガリ君」という商品もあって、社名も全国に知られるようになりましたが、私が入社した頃は、それには遠く及ばない小さな規模の会社でした。私がそんな会社に入社を決めたのは「鶏口となるも牛後となるなかれ」と考えていたからです。大企業の末端で社会人生活を送るよりも、小さくてもきらりと光る会社で、自分の力を思う存分に発揮し、会社を大きくすることに役にたちたいと夢を描いていたのです。
―入社後しばらくして「ガリガリ君」を開発されました。商品開発に当たって何を考えたのでしょうか。
1960年代から70年代にかけては、カップタイプの氷菓の「赤城しぐれ」が大ヒットしていました。しかしオイルショックの影響でカップの価格が高騰したことや他社との価格競争などで、次第に売れなくなってしまったのです。そこで、1979年に当時の井上秀樹専務(現会長)から、「赤城しぐれ」を超えるような商品の開発を命じられました。
開発に当たって考えたのは、遊びに夢中の子どもが食べられるように、片手でも食べられるバータイプにすることでした。次に、「赤城しぐれ」のフレーバーの、いちご、白みつ、あずきを採用しないことにしました。カップタイプからバータイプにしただけなら「カップの分だけ安くしてほしい」と言われてしまう。だから同じ味にはできなかったのです。
これまでの売れ筋の味を否定して、全く新しいものを作らなければならなかったのです。何をやっていいか分からなくなってしまい、本当に悩みました。
そこで、アイス業界の売れ筋を調べるのではなく、飲み物の売れ筋を調べることにしました。調べているとソーダとグレープフルーツとコーラが売れ筋であることが分かり、この3種類をフレーバーとして採用しました。しかしソーダもグレープフルーツも、そのまま凍らせるとどちらも同じ白色になってしまいます。そこでソーダ味に色を付けました。子どもが外で遊ぶことからイメージされる空、地球の色である水色にしたのです。ソーダ味に水色を付けたのは、「ガリガリ君」が初めてだといわれています。これらのフレーバーは、今も続く定番アイテムになっています。
―「ガリガリ君」は今では誰でも知っているブランド名ですね。
当初、商品名は氷菓を食べるときの擬音の「ガリガリ」にしようと考えていました。しかしそれでは何かおかしいかなと思い、井上秀樹専務のところに相談に行きました。すると専務が簡単に「『君』を付ければ?」と提案してきたのです。このとき「ガリガリ君」という固有名詞が誕生したのです。
実は、これがヒット商品となった要因の一つです。「ガリガリ君」という固有名詞になったからこそ、商標登録もできてブランド名になり、世の中に広く認知されたのです。もし「ガリガリ」という擬音のままだったら、他社から類似商品が発売されていたかもしれません。そうなれば、激しい競争にさらされていたかもしれないのです。
―今では年間約4億本を販売しているそうですが、発売当初の売り上げは何本だったのですか。
「ガリガリ君」は、1981年に発売されました。発売当初は今の10分の1の4,000万本しか販売していませんでした。当時のアイスは、多くが街の駄菓子屋さんなどで売られていました。こうしたお店には大手メーカーが貸し出したストッカーと呼ばれる冷凍ケースが設置され、私たちのような中小メーカーの商品はなかなか置いてもらえなかったのです。そこで私たちはその頃店舗網を広げていた、コンビニエンスストアとの取り組みに重点を置きました。コンビニエンスストアの店舗数が増えると同時に、販売数量も伸びていきました。
思いもつかなかったマイナスイメージ
―ずっと順調に販売数量を伸ばしてきたのですか。
「ガリガリ君」の販売数量が1億本を超えたのは発売から19年後の2000年です。しかし、1990年代の後半に、伸び率が鈍化していた時期がありました。
その原因を探るために、お金をかけて全国3万人の消費者調査をしたところ、データはたくさん集められたのですが、はっきりとした答えは何も出てこない。どうにもならなくなって知り合いに相談したところ「鈴木さん、バカじゃない? 日本人はタテマエと本音を使い分けるのだから、広範囲に調査してもダメ」と言われてしまったのです。ではどうしたら本音を引き出せるのかというと、グループインタビューが有効だというのです。
早速、グループインタビューを行うことにしました。そこで女性グループから散々な評価を受けてしまったのです。パッケージに印刷されたキャラクターを見て、「格好悪い、恥ずかしくてレジに持っていけない」と言うのです。揚句の果てに「汗が泥臭い、歯ぐきが汚い、田舎くさい」と私に向かって言ってきたのです。
これは主婦の本音であり、私たちでは思いもつかなかったことでした。
―2000年以前のパッケージを見ると、「ガリガリ君」のキャラクターは今とはずいぶんと違います。今のキャラクターは、かわいくなっていますね。
それまでの「ガリガリ君」のキャラクターイメージは、「中学3年生の野球少年」でした。グループインタビューを受けて、キャラクターの刷新を図りました。
実は今のキャラクターデザインは、当社のデザイナーではなく、ある調査会社の社員が描いたものです。彼の本職は調査員でイラストレーターではありません。私は、調査員に絵が描けるのかと思っていたのですが、彼は「ぜひ、私に描かせてください。私以上に子どもの頃から『ガリガリ君』を愛している人はいないと思います」と言ってきたのです。その思いに懸けてみた結果が、今の、年齢設定が小学生の「ガリガリ君」です。
今のパッケージを見てください。歯ぐきが見えていません。汗も輝いていますよね。こうしたドラスティックな変革は、外部の知恵やノウハウの力によるところが大きいものです。
取引停止の会社に通い続けた社員
―小売業との取り組みはその後も順調だったのですか。
2000年以降、経営戦略として「ヴァーチカル・インテグレーション」が注目されました。いわゆる垂直統合です。赤城乳業も大手チェーンのA社と、物流から商流までがっぷり四つで取り組むことを始めました。すると、そのライバル会社のB社から、赤城乳業の商品が全面的に撤去されてしまったのです。さらにB社では「ガリガリ君」に似た商品が、プライベートブランド商品として発売されたのです。
私がその時感銘したのは、B社を担当していた当社の営業チームです。彼らは取引停止になってもB社に通い詰めたのです。「来なくてもいい」と言われながら、日参しました。B社に通い続ける社員を見て頭が下がりました。
―B社との関係はその後どうされたのですか。
その後、流通業界の再編もあって、B社のトップと会う機会があり、取引再開をお願いしました。そこで私は「B社ともあろう会社が、『ガリガリ君』のまがい物を販売するのはいかがなものか」とたんかも切りました。B社のトップから、「赤城乳業さんの商品に瑕疵(かし)があったのか」と聞かれました。「全くありません」と答えたところ、即座に取引は再開されました。
私は役員になっていましたので、B社との取引がなくなった責任がありました。これで私の責任は、少しは果たせたかなと思ったことを覚えています。
―赤城乳業の販売促進やメディアの利用の仕方が上手だと聞きます。「ガリガリ君」のキャラクターもよく見るようになった気がします。
2000年以降は、お客さまとのコミュニケーションを大切に、マーケティング活動を積極的に取り組んでいます。キャラクターの着ぐるみを登場させたのは04年からです。今の「ゆるキャラ」の先駆けです。06年には漫画雑誌とのコラボレーションを始めました。同年には北海道で吹雪の中や、受験前の予備校でサンプリングも行いました。
10年に稼働した主力工場「本庄千本さくら『5S』工場」で、工場見学も始め業務全体の見える化を図りました。積極的にマスコミにも開示し、新聞、雑誌、テレビなどでも紹介していただき、広告効果は20数億円に換算できるといわれています。おかげさまで、07年に2億本、10年に3億本、そして11年に販売本数は4億本を突破しました。
マーケティングについても面白い施策がたくさんあります。
後編では、どうしたら面白いアイデアを生み出し実現する組織をつくることができるのかをお伺いします。