水辺の魅力的な空間をまちづくりに生かそう、と2009年にスタートした「豊洲地区運河ルネサンス」。「船カフェ」や「豊洲水彩まつり」といった、豊洲ならではのイベントが行われています。その仕掛け人ともいうべきが、豊洲にキャンパスを置く芝浦工業大学・建築学科の志村秀明教授。「まちづくり」「都市デザイン」をテーマにしている志村教授の研究室は、運河ルネサンス協議会の事務局でもあります。

「大学での学び」という枠を超え、地域に飛び込んで積極的に住民や商店、企業と関わりを持ち、活動を広げる志村研究室。開発が急激なスピードで進む豊洲界隈ですが、「まちづくり」を専門とする教授の目には、どう映っているのでしょう。トヨスの人の第11回目は、芝浦工業大学教授の志村秀明さんに、話を聞きます。

― 志村先生は、東京湾の最初の埋立地として明治時代に完成した「月島」で生まれて、現在も月島在住なのですね

島は、戦前からの古い路地や長屋が残っていることで知られています。子ども時代を過ごしたのは、今の「もんじゃストリート」一番街すぐ脇の路地にあった2軒長屋です。1階と2階を合わせても44㎡という所に、祖母を含めた家族5人で住んでいました。子どもですから、その環境をいいとも悪いとも思わず、無邪気に路地を駆け回って遊んでいましたよ。

画像: パソコン上で、生まれ育った月島の長屋や路地の写真を見せていただく

パソコン上で、生まれ育った月島の長屋や路地の写真を見せていただく

8歳の時に栃木県へ引っ越したんですけど、自分は都会を引きずっている人間で、大学は「地方へ行きたい」という思いで北海道大学を選びました。まあ単純に、テレビドラマ『北の国から』の影響があったんですけどね。北大では、工学部に入った学生は教養課程を終えた後に、成績順で学科を選ぶことになっていたんです。建築学科希望だったんですけど、部活のテニスに夢中になっていたのと、急に建築の人気が上がったこともあって、土木工学科になってしまった。それで、北大を卒業した後に、学士編入学で熊本大学の建築学科に入りました。専門は、都市デザインです。

― 卒業後は、安井建築設計事務所に就職されています。全国の公共施設や駅舎などの建築に関わる大手の会社ですね

公共施設の設計に関わりました。勤務先が都内だったので、そのタイミングで再び月島に戻って来たんです。生まれ育った2軒長屋は再開発でマンションになってしまったんですけど、別の長屋で1人暮らしを始めました。実は、志村家はもともと長屋を何軒か持っていまして、不動産屋のように管理をしていたんですね。差配師っていいます。2軒長屋の片方がちょうど空いたというので、最低限のリノベーションをして暮らすことにしました。トイレを洋式にしたりシャワールームを付けたりして、それなりに暮らしやすくして。お隣は、戦前から暮らしていたおばあさんです。長屋は音が筒抜けですからね、うるさくしないように気を使いましたよ。

画像: 現在の月島の路地風景。メイン通りから一本入ると、がらりと雰囲気が変わる

現在の月島の路地風景。メイン通りから一本入ると、がらりと雰囲気が変わる

― 当時の豊洲は、どんなふうでしたか?

仕事が休みの日に、よく自転車で出かけていたんです。今もまち歩きが好きで、あちこちをぶらぶらしていますけどね。月島で暮らしていると、いろいろなものが密集していますから、豊洲に行くと空間的な広がりがあるのでほっとできました。豊洲交差点の辺りも、まだ何もなくてぽかーんとした感じ。まあ今じゃ考えられない程、のどかでした。造船所があったので、船がたくさん停まっている風景も特徴的でしたね。そういえば、石川島播磨重工業(現IHI)の当時の本社ビルが4、5階建ての近代建築で、横連窓がキレイに並んでいて、通るたびに「いいな」と思っていました。建築をやっている人間からすると、気になる建物でした。6丁目のふ頭は、エネルギー基地があって、入れなかった。私にとっては、自転車で東雲や、お台場に行く途中にあるのが豊洲、といった感じでしたね。お台場なんて、それこそ何もなくて松林が広がっていましたから。

― 仕事を辞めて、大学院に通いますね

建築を2年しか学んでいなかったので、もっとちゃんと勉強したいと思っていたんです。早稲田大学の佐藤滋先生との出会いもあって、早稲田の大学院に。その後は、好奇心のままこうやって研究の道を歩んでいます。

画像: 研究室でパソコンに向かう志村秀明教授

研究室でパソコンに向かう志村秀明教授

画像: ― 仕事を辞めて、大学院に通いますね

都市計画、まちづくりが私の専門なんですけど、建築をやっている人の中では、月島という場所は結構知られていて、「長屋」に興味を持つ人は多いんです。でも、実際に僕のような長屋育ち、長屋暮らしって相当珍しいわけですよ。周りのみんなからは面白がられて、「中を見せてくれ」って随分と言われましたよ。

音が筒抜けで、プライバシーはないようなものだけど、お互いさま、で暮らすのが長屋暮らしです。近所同士が、その家の家族構成も一人一人の性格もわかっているんですね。まちとの一体感がある暮らし。まあ、近所づきあいが面倒くさくもあるんですけどね。慣れてしまえば、それは心地よいものです。そこで育った人間で、当事者の目線を持っているというのは、都市計画の専門家として強みだと思っています。いい面も悪い面も、実体験として理解できますから。

― 志村先生は、月島や佃島で暮らしてきた人たちを訪ねて、思い出を語ってもらい映像に残す「オーラルヒストリー」の取り組みをなさっています。その映像「月島百景」「佃島百景」は、ネットでも公開しています。話の中には、「昔の男の人たちは、銭湯からモッコ(ふんどし)一枚の姿で家に帰るから、嫁いだばかりの時は本当に驚いた」という佃島の女性の話などが出てきて、微笑ましかったり、暮らしがそのまま見えてきたりします。こういう聞き取りの活動は、建築とはどんな関係があるのでしょう?

生活や文化を記録するという、社会学的な取り組みではありますけど、建築と結びついているんですよ。いいまちをつくるためには、必要なことなんです。今、豊洲や月島には次々と新しいマンションが建っていて、「億ション」もざらですね。では便利に快適に暮らせればそれでいいのか。箱さえ造ればいいわけじゃなく、その土地で文化やコミュニティーが育まれることがないと、いいまちはできないと思っているんです。そのために記録して残していかないと。

画像: 再開発が行われている月島の一角。ここに、木造長屋をリノベーションした「月島長屋」があり、志村研究室の月島での拠点になっていた。地元住民たちも集い、地域雑誌『佃・月島』の編集会議も行われたが、残念ながら取り壊しに

再開発が行われている月島の一角。ここに、木造長屋をリノベーションした「月島長屋」があり、志村研究室の月島での拠点になっていた。地元住民たちも集い、地域雑誌『佃・月島』の編集会議も行われたが、残念ながら取り壊しに

例えば、うちの研究室では江東区の北砂にある「砂町銀座商店街」のまちづくりサポートもやっています。ただ今の学生たちには、そもそも商店街の記憶がないわけですよ。2000年以降生まれの子たちにとっては、大型ショッピングセンターの方が馴染みがあるんですね。もっと言えば、ネット通販で何でも取り寄せです。商店街は、どんなものだったのか。なぜ今、何とかしなくちゃいけないのか。その根本がよくわからない。学生たちは、「繋がりをつくる」とか「コミュニティーをつくる」とか、言うんですよ。ところが、リアリティーがないんです。「イベントで駄菓子屋をやろう」ってなっても、実際に駄菓子屋に行った経験がなかったり、お店のおじちゃんとやりとりしたことがなかったり。

ただ、これは仕方ないですよね。日本のまちは、スクラップ&ビルドで、大事なものが受け継がれることなく、どんどん取り壊されてきましたから。そんな時に、「オーラルヒストリー」の映像を見せると、学生は当時の暮らしや文化がわかるわけです。自分の足で歩いて何となく感じたまち並みの雰囲気と、そこで暮らして来た人たちの話がつながって理解できる。まちづくりは、こういうところが大事です。

画像: ― 志村先生は、月島や佃島で暮らしてきた人たちを訪ねて、思い出を語ってもらい映像に残す「オーラルヒストリー」の取り組みをなさっています。その映像「月島百景」「佃島百景」は、ネットでも公開しています。話の中には、「昔の男の人たちは、銭湯からモッコ(ふんどし)一枚の姿で家に帰るから、嫁いだばかりの時は本当に驚いた」という佃島の女性の話などが出てきて、微笑ましかったり、暮らしがそのまま見えてきたりします。こういう聞き取りの活動は、建築とはどんな関係があるのでしょう?
画像: 月島のメインストリートでもある西仲通りは、通称「もんじゃストリート」と呼ばれる。50店舗以上のもんじゃ焼き屋と商店が軒を連ねる

月島のメインストリートでもある西仲通りは、通称「もんじゃストリート」と呼ばれる。50店舗以上のもんじゃ焼き屋と商店が軒を連ねる

― 芝浦工大のある豊洲でも、積極的に地域と関わっていらっしゃいます。ただ、路地や長屋が残っている月島や佃と比べると、豊洲は高層マンションの住人ばかりで様子が異なると思うのですが……。

確かに、マンションの住人が多い豊洲では、昔ながらのコミュニティーというものがないんですけど、水辺を利用して地域を盛り上げていこう、という取り組みが始まりました。

画像: 年度末で忙しいなか、インタビューに応じてくださった志村教授。研究室では学生たちが集まり各自の作業に集中していたため別室にて

年度末で忙しいなか、インタビューに応じてくださった志村教授。研究室では学生たちが集まり各自の作業に集中していたため別室にて

豊洲の商店組合「豊洲商友会」は、本当にオープンマインドなんですよ。外からの者を受け入れて、新しいことを面白がってくれるんです。そういう文化がある。私自身、地域にどんどん出て行っておつきあいをしているんですけど、商友会の方との出会いで、「運河ルネサンスをやろうよ」という話につながりました。まずは、うちの研究室で「船カフェ」という実験的な試みから始めました。船着場に係留した船をカフェにするという取り組みです。その後の「水彩まつり」では、東京湾をクルージングする船の中で、うちの研究室の学生がガイドをしています。飲食物の販売は商友会、クルージングは船会社、他にもNPO法人や住民など、豊洲のさまざまな分野の人たちが関わってイベントを運営している状況です。

画像: 豊洲側から見た運河の風景。豊洲大橋がかかる

豊洲側から見た運河の風景。豊洲大橋がかかる

建築を学んでいる学生たちは、月島には興味があっても、はっきり言って豊洲への関心は低いんですね。ららぽーとは大好きですけど。でも、豊洲だって面白いんですよ。例えば、セブン-イレブンの1号店。豊洲に1号店があることはよく知られた話ですけど、大抵はそれで終わっちゃう。重要なのは、なぜ、山本憲司さんの元酒屋が1号店に選ばれたのかってことです。あの頃の豊洲は、本当に何もない空き地が広がっていたんです。アメリカのコンビニを日本に持ってくるための1号店を、その豊洲で始めたいって彼は名乗りを上げたんですから、すごいチャレンジングなわけですよ。開拓精神とでもいいましょうか。豊洲は、そういう人が住んでいる場所っていうことです。ゼロからつくり上げてきて、今があるんです。

学生は、クルージング船でガイドをするために、豊洲のことを知ろうとするわけですね。6丁目のふ頭にあったエネルギー基地についても学びます。あの場所は、戦後の日本の発展を支えて、そういう時代を経て今の日本があるんだな、とわかる。なるほど、面白いなあ、と土地に興味を持つようになって、そうすると豊洲というまちに対する視点も変わってくるわけです。

画像: ユニアデックスの社屋から見える豊洲の風景

ユニアデックスの社屋から見える豊洲の風景

東京湾岸のこの辺りは新しい地区と思われていますけど、知れば知るほどいろいろなものが見えてきて面白いですよ。そろそろオーラルヒストリーの「豊洲百景」もやらなくちゃですね。豊洲にも、魅力的な方がいっぱいいらっしゃいますから。

画像: ― 芝浦工大のある豊洲でも、積極的に地域と関わっていらっしゃいます。ただ、路地や長屋が残っている月島や佃と比べると、豊洲は高層マンションの住人ばかりで様子が異なると思うのですが……。
画像: 豊洲駅前の交差点に建つ「豊洲シエルタワー」の上層階からの眺め。現在の豊洲のまちが一望できる。奥は東京湾

豊洲駅前の交差点に建つ「豊洲シエルタワー」の上層階からの眺め。現在の豊洲のまちが一望できる。奥は東京湾

画像: インタビューを終え、研究室へ向かう志村教授。学生たちが制作した模型やさまざまな材料が置かれた校内は、いかにも建築学科という雰囲気

インタビューを終え、研究室へ向かう志村教授。学生たちが制作した模型やさまざまな材料が置かれた校内は、いかにも建築学科という雰囲気

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