スウェーデン出身の庭師・村雨 辰剛さん。中学生の頃から日本に興味を持ち、26歳で日本国籍を取得。庭師として個人のお宅やイベントでの造園を手掛けるかたわら、俳優、モデル、YouTuberとしても活躍の幅を広げています。NHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』では、心優しい米軍将校の好演が話題に。一方、現在の活躍に至るまでは、さまざまな挫折や苦労がありました。10代で来日し、未経験で日本庭園の世界に飛び込む――冒険のような人生。そこには、「好き」をとことん突き詰める、村雨さんにしかたどれない軌跡がありました。

北欧スウェーデンから日本への思いを馳せた少年時代

―日本に興味を持ったきっかけを教えてください。

スウェーデンの田舎町で育った僕は、子どもの頃から「いつか海外に住みたい」と強く思っていました。運命の出会いは中学生の時。世界史の教科書で少しだけ出てきた日本の歴史にとても興味を持ちました。とりわけ、武士が活躍する戦国時代は面白い!特に上杉謙信は格好良いですよね。「背後からは攻めない」「相手も万全でなければ戦を仕掛けない」といった“武士道の精神”は、まさに日本ならでは。ライバルの武田信玄が亡くなった際、上杉謙信が涙を流したというエピソードにも感動しました。

画像: ―日本に興味を持ったきっかけを教えてください。

日本史との出会いがあって、「いつか日本に住んでみたい」と思うようになりました。ただ、僕の家は裕福ではなかったので、留学費を払って日本に行く選択肢はありません。日本語も独学です。ひらがな・カタカナを覚えてから、和英辞典を片っ端から読み、単語をメモして、とにかく頭にたたき込む。常に和英辞典を持ち歩いて日本語をつぶやいて覚えていたので、同級生からは「日本人」というあだ名がつけられました(笑)

―16歳で念願の日本でのホームステイが実現しましたね。

当時、覚えた日本語を使うためによくチャットを利用していたのですが、そこで仲良くなった日本人の方のご厚意で3カ月間ホームステイできることになったんです。1つ問題だったのは、日本に行っている間は高校を休まなければならず、進級が難しくなること。僕は、ホームステイも進級もあきらめたくなかったので、校長先生に直談判に行きました。「将来を考えるために、今日本に行きたいんだ!」という熱意を伝えて、「日本に行っている間は通信教育にしてほしい」と訴えたんです。そのかいあって、校長先生は教師全員で僕をサポートすることを約束してくれました。スウェーデンは自由主義の国なので、子どもが「こういうことをしたい」と言ったら大人たちが耳を傾けてくれます。当時はそれが当たり前だと思っていましたが、「周りの人にすごく応援してもらえていたんだな」と、今は感謝の気持ちでいっぱいです。

日本では有意義な3カ月間を過ごせました。ホームステイ先は、庭付きで畳の和室もある古き良き日本の一軒家。滞在中は、“お父さん”と毎朝仏間で一緒にお経を読むのが僕の日課で、茶道をたしなむ“お母さん”には茶会に連れて行ってもらいました。「日本本来の暮らし」を体験できることに毎日ワクワク!「いつか日本に住む」目標は「絶対に日本に住む」決心に変わり、その時点で日本国籍の取得も視野に入れていました。

理想と現実のギャップに悩みながらも、天職「庭師」に巡り合う

―19歳で来日し、語学講師として働き始めました。憧れていた日本での生活はどのようなものでしたか。

僕は大卒でもないし、特別なスキルがあるわけでもありません。職業はもちろん、行きたい場所も選べる状況ではなく、たまたま英語とスウェーデン語を教えられる人を探していた名古屋の外語学院で語学講師として働き始めたんです。生活にも十分慣れたタイミングで語学講師を辞め、自分のライフワークを探すために動き始めました。

以前から僕は徒弟制度に興味があり、「師匠に弟子入りして一から技術を学びたい」と思っていました。22歳の今なら遅くはないと、興味のあった社寺建築に関わる職業を中心に連絡先をリストアップして、「弟子入りさせてほしい」とひたすら電話です。面接までしてもらえたこともありましたが、宮大工の仕事は組み立てや木材加工にも高い技術と知識が必要なこともあって結果は全滅。手元の資金が少なくなり、アルバイトをしようと求人誌を開いた時に目に飛び込んできたのが、造園会社の短期募集でした。「造園」という言葉を知らなかったので調べてみると、日本庭園を造る仕事だと分かりました。日本庭園こそ、伝統を感じる日本ならではのもの。「これだ!」と感じてすぐに応募し、採用してもらうことができました。

画像: ―19歳で来日し、語学講師として働き始めました。憧れていた日本での生活はどのようなものでしたか。

―造園会社でのお仕事はイメージ通りでしたか?

さまざまな庭師の方が造った庭を見られるので、毎日美術館を巡っているようでした。そこで自分が働いていることもうれしくてたまらなかった。屋外での肉体労働は初めてだったので、熱中症になったり、ハチに刺されたり、慣れるまでは大変なことも多かったです。でも、大変さよりも造園の仕事に関わる喜びの方がはるかに勝っていました。親方や兄弟子が切った枝の片付けや道具を運ぶお手伝いがメインでしたが、庭師の仕事を間近で目にするうちに「これこそが自分が求めていた仕事だ」と確信しました。

僕は庭師として生きていきたい――。1年間のアルバイト期間を経て親方に弟子入りを願い出ましたが、弟子を増やす余裕がないとの理由で断られてしまいました。そこで、造園会社や植木屋がたくさんある愛知県内の西尾市方面に引っ越して、庭師の「師匠」を探すことに。そこでもまた得意な電話作戦の決行です。西尾エリアの造園会社に「弟子入りさせてほしい」とひたすら電話しましたが、すべて断られてしまいました。でも、当面の仕事を探そうとハローワークに行ったら、信じられない奇跡が起きたんです。なんと、職員さんが「弟子が突然辞めて困っている知り合いの庭師がいる」と言うのです。その“知り合いの庭師”が、後に僕の親方となる方でした。

高校生の時に日本へのホームステイが実現した時も、造園会社の短期アルバイト募集を見つけた時もそうでしたが、僕の人生を振り返ると、自分ができることをとにかくやって、やって、やって、本当に全部やり切った時に、新しい道が現れるんです。一生懸命やって失敗することはマイナスではなく、成功に至るまでの必要な過程だと、身にしみて感じますね。

― 弟子入り後、どのように技術を習得していったのですか?

弟子は僕一人だったので、「早く仕事を覚えて親方の役に立ちたい」という一心で過ごしていました。持ち場が早く終わった時は親方の仕事を観察して、分からないことは積極的に質問して技術を習得していきました。親方はとても厳しい方ですが、技術が上がればどんどん新たなチャレンジをさせてくれました。初めて松の剪定を任せてもらえた時は本当にうれしかった!リカバリーがきかない松の剪定は技術的なランクとしては一番上。集中して慎重に作業をしていたら、1日があっという間に過ぎていました。

画像: ― 弟子入り後、どのように技術を習得していったのですか?

当時、親方に褒められたことはほとんどありません。成長を感じるのは、毎年管理を依頼される庭園で、去年と今年の作業を比較した時。「作業が早くなった」「きれいにできた」。そう感じたら、自分を褒めていました。徒弟制度では、自分の成長を自らで感じて初めて見える課題や達成感があります。すべては“自分次第”。今の社会では「教えてもらえる」のが当たり前で、受け身で過ごしてしまう人が多いとも感じます。「褒めて伸ばす」考え方もそうですが、“他人次第”が前提になっていますよね。自分が積極的にならなければ、次のステップには進めないし続かない。現代では貴重な徒弟制度は、この先も無くならないでほしいです。

念願の日本国籍を取得した今、庭師・村雨辰剛が見据えるもの

―26歳で国籍取得され、お名前を「村雨辰剛」とされました。その由来を教えてください。

庭師としての修業経験が人生の中で大きなものだったので、最初は親方に名前をつけてほしいとお願いしました。戦国時代の武将は位が上がった際に自分が仕える殿さまから一文字もらって名前をつけているし、力士も親方にしこ名をもらっていますよね。 でも親方には「責任が重い」と断られてしまいました。そこで、親方のお父さんで先代である師匠が僕の意をくんでくださいました。
「村雨」は師匠が好きな歴史作家の村雨退二郎さんに由来するそうです。名前は自分で考えて、辰年生まれなので「辰」。親方の名前から一文字頂いて「剛」。「たつまさ」という響きも気に入っています。

画像: ―26歳で国籍取得され、お名前を「村雨辰剛」とされました。その由来を教えてください。
画像: 村雨さんが日々庭師として活動する際の羽織

村雨さんが日々庭師として活動する際の羽織

―国籍の取得後にはどんな変化がありましたか?

自分の中で「日本に一生住んで、日本で死ぬ」覚悟が定まりました。もちろん、見た目はこのままなので、日本人とは思われません。でも、僕は自分のことを日本人だと思っているので、もっと学んで、日本人として恥ずかしくない振る舞いをして、日本の将来を考えて生活していきたい。戸籍も選挙権もなければ、いくら「日本を良くしたい」と僕が願っても行動を起こすことはできません。国籍を得て、ようやくそのスタート地点に立つことができました。

―庭師の仕事をされている中で、大切にしていることは何でしょう。

自然をよく観察することです。日本庭園は自然を模して風景を造るので、土や木や花などの瞬間、瞬間の要素をよく見ておくことが大切です。「庭」のすぐそばで生活する日本古来の暮らしは、スウェーデンと似ています。森があって、日本と同じように苔が好きな人も多くて、「わびさび」の感覚も通じるところがあります。スウェーデンで培った自然観は、庭師の仕事にも生きていると感じますね。

庭の施主さまとのコミュニケーションも大切です。庭は生き物でできている空間なので、施行した日が「完成」ではありません。「経年美化」という言葉がありますが、日に当たったり、雨風にさらされたり、木々が成長したり……。時間をかけて価値を増していくのが庭です。「ゆくゆくはこうなります」との長い目で見たイメージを、プロとしてしっかり施主さまに伝えることも心掛けています。

画像: 村雨さんの庭師道具一式。ホルダー部分は革製ベルトでつくられ、庭師道具と共に使い込むほどに味わいが増してくる

村雨さんの庭師道具一式。ホルダー部分は革製ベルトでつくられ、庭師道具と共に使い込むほどに味わいが増してくる

画像1: ―庭師の仕事をされている中で、大切にしていることは何でしょう。
画像2: ―庭師の仕事をされている中で、大切にしていることは何でしょう。
画像: 剪定に使うハサミや枝打ちに使うのこぎりにも入念な手入れがされている。村雨さんの真摯な思いが道具一つひとつからも感じ取れる

剪定に使うハサミや枝打ちに使うのこぎりにも入念な手入れがされている。村雨さんの真摯な思いが道具一つひとつからも感じ取れる

―今後の夢を教えてください。

今はないです(笑)!10~20代の頃は「国籍を取得して日本人になりたい!」と目標意識が高かったのですが、それがかなった今は、次の夢や目標をあえて持っていません。「日本の庭園の良さを広く伝えて、庭がある家をもっと取り戻したい」「俳優として活躍したい」という、大まかな方向性を決めることは大事だと思います。

でも「何歳までにこれになる!」は結局そうならないことが多い。30代になった今は冷静に現実を見ることもできていて、自分に無理をさせずに、自然の流れの中で生きることも大事だと感じています。5年後、10年後に僕がどうなっているかは、自分でも本当に分からない。まさに人生は冒険です。ゴールが分からないからこそ、僕はとてもワクワクしています。

画像: 【Profile】 庭師 村雨辰剛(むらさめ たつまさ) 1988年7月25日生まれ、スウェーデン出身。19歳の時、日本に移住。語学能力を活かし日本で語学教師として働き始めると同時に外国人事務所にスカウトされ、CM出演ほか通訳や翻訳の仕事をこなす。23歳で造園業の世界に飛び込む。その後、日本国籍を取得。ドラマ『二つの祖国』(19年)、NHK朝の連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』(21年)、NHK『みんなで筋肉体操』などに出演。特技は日本語、スウェーデン語、英語のトライリンガル、造園技術。趣味は筋トレ、肉体改造、盆栽

【Profile】
庭師 村雨辰剛(むらさめ たつまさ)

1988年7月25日生まれ、スウェーデン出身。19歳の時、日本に移住。語学能力を活かし日本で語学教師として働き始めると同時に外国人事務所にスカウトされ、CM出演ほか通訳や翻訳の仕事をこなす。23歳で造園業の世界に飛び込む。その後、日本国籍を取得。ドラマ『二つの祖国』(19年)、NHK朝の連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』(21年)、NHK『みんなで筋肉体操』などに出演。特技は日本語、スウェーデン語、英語のトライリンガル、造園技術。趣味は筋トレ、肉体改造、盆栽

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