ニューヨークで活躍する日本人にNexTalk編集部のミキティがインタビューする、NexTalk「NY編」。今回は、ニューヨークを拠点とするオペラ歌手 田村 麻子さんです。2002年日韓共催ワールドカップ前夜祭では、3大テノールのプラシド・ドミンゴ氏、故ルチアーノ・パヴァロッティ氏、ホセ・カレーラス氏と共演。また、欧米各地でルチア、椿姫、マダム・バタフライなどの主役を演じるなど、キャリアを切り開いてこられました。世界で活躍する田村さんに、日本人オペラ歌手としての道のりについてお聞きしました。
ピアノから声楽に転向。「ダイヤモンドの原石」と評される
― NexTalkの読者には、オペラファンも、オペラを観たことがない方もいます。オペラの魅力を初心者にもわかりやすく教えていただけますか。
オペラは、ヨーロッパの貴族文化から生まれ、「芸術の最高峰」と言われています。貴族たちの五感を満足させるべく、贅を尽くしたオペラハウスで、オーケストラ、コーラス、歌手、指揮者、デザイナーが、優れた文学作品(ギリシャ神話など)を題材とした舞台を作り上げます。それらの相乗効果で、1+1が100にも200にもなる瞬間に立ち会えるのが醍醐味です。
初めて観る方でも、オペラ特有のベルカント唱法で歌う「人間という楽器」の素晴らしさに感動してもらえると思います。同じキャスト、同じ演目でも、同じパフォーマンスは2度となく、一期一会の楽しさを知ると、劇場通いはやめられなくなるはずです。
― 田村さんが、オペラ歌手を目指したきっかけを教えてください。
母の意向で、4歳から本格的にピアノを始めましたが、ピアニストになるには手が小さく、14歳の時に挫折。幼少期から大好きで、のど自慢大会などでも評価されていた声楽に転向したのです。大学受験前に観たドニゼッティの「ランメルモールのルチア」に感動し、「オペラ歌手の道に進む」と決意しました。
― 国立音楽大学声楽科、東京藝大大学院オペラ科で学んだ後、さらなる勉強の場として、ニューヨークへ行かれました。オペラの本場イタリアではなく、アメリカを選んだのはなぜでしょうか。
97年にプラシド・ドミンゴ国際オペラ・コンクールで最年少入賞した際、ドミンゴ氏から「ダイヤモンドの原石」と評され、「国際的に活躍したいなら、英語を習得した方がいい。アメリカならハイレベルな音楽教育が受けられる」とアドバイスされたのです。実はイタリア留学が決まっていたのですが、留学先をアメリカに変更し、27歳でニューヨークに渡りました。
ジュリアード音楽院、マンハッタン・スクール・オブ・ミュージック、マネス音楽院の3校すべてに合格し、成績優秀者として奨学金を出すと言ってくれたマネスに進学しました。マネスでは、学内公演で主役を与えられるなど多くのチャンスをいただき、首席で卒業しました。
アジア人としてのハンディを抱えながら、主役を獲得
― 各国から優秀な学生が集まる中、首席卒業は素晴らしいですね。その後、キャリアは順調に開けたのでしょうか。
それが、コンクールでは優勝できても、オーディションは全く受からなかったのです。歌唱力だけが評価されるコンクールとは違い、オーディションでは、人種、容姿なども含めて評価されます。「Asako Tamura」という名前を見ただけで、「アジア人は要らない」という素ぶりをする審査員、よそ見をしながら私の歌を聴く審査員もいました。アジア人であることが不利になる現実に直面し、金髪にして目を引こうとしたり、名前を変えようかと悩んだこともあります。
― いくら才能があっても、オペラ界ではアジア人であることが大きなハンディとなるのですね。
それでも、「どんな小さな役でも経験が欲しい」という思いでオーディションを受け続け、イタリアの劇場で小さな役をもらいました。5秒歌うシーンが2回あるだけ(笑)。リハーサルではイタリア語とドイツ語が飛び交い大変でしたが、充実した日々でした。その間、ルーマニアやハンガリーなどにオーディションを受けに行き、2002年にルーマニア国立劇場で「ランメルモールのルチア」の主役を獲得しました。
― ヨーロッパの劇場で日本人が主役をもらうのは、とても珍しいですよね。田村さんが選ばれた要因は何だと思われますか。
ルチアへの思いと練習のたまものでしょうか。ルチアは私がオペラ界を目指すきっかけとなった役です。最終幕には、半狂乱になりながら15分間も歌い続ける見せ場があり、難役だと言われていますが、私は大学時代からみっちり10年間ルチアを勉強し続けてきましたので、自信がありました。実際、公演は大成功し、地元の新聞でも「日本からスターが来た!」と絶賛されました。
― ヨーロッパでの主役デビュー、大成功だったのですね。その後の展開は?
これをきっかけに、ハンガリー国立歌劇場から、「1週間後に迫った公演で、ルチアの代役をしないか」との話をいただき、ラモン・ヴァルガス氏との共演を成功させました。また、イタリア・サルデーニャのカリアリ歌劇場では、憧れのマリエッラ・デヴィーア氏とのダブルキャストも。この時は毎朝、「夢かもしれない」と、ほほをつねっていました(笑)。
― まさに夢のような日々だったのですね。
一方で、カリアリ歌劇場では、演出家に「なぜ日本人なのにオペラなのか」「なぜアメリカで勉強したのか」「イタリア人のまねをしないで、日本人であることに誇りを持てばいいのに」などと言われ続け、悔しい思いをしました。それでも歯を食いしばってがんばり、結果的に大成功。カーテンコールで「このまま死んでもいい」と思ったほどです。
ところが、次のオファーは1件もなし。マネージャーも「もしAsakoがイタリア人歌手なら、次のオファーが殺到する快挙だったのに」と。「私には、夢の向こうに道はないのだ」とむなしくなり、アメリカに戻りました。
私にしかできない、新しいスタイルを生み出したい
アメリカに戻ると、ヨーロッパでの実績が評価され、仕事をもらえるようになっていました。2015年には米・大リーグのナショナルズ対ヤンキース戦で、初めて外国人歌手としてアメリカ国家を斉唱する機会もいただきました。英語で仕事ができること、アメリカ人のフレンドリーな気質などにも救われています。また、現在7歳の娘も素晴らしい音楽教育を受けており、充実した日々を過ごしています。
― 海外でオペラ歌手として活動する難しさを感じる中で、オペラ歌手になったことを後悔したり、諦めようと思ったりしたことはありますか。
辞めようと思ったことは何万回もあります。「なぜ、三味線でもお琴でもなく、オペラを好きになってしまったのだろう」と。実は、転職を考えたこともありますが、やはり私の魂が生き生きするのは、歌っているとき。もう舞台からは離れられないと思います。最近は、「歌で人を感動させることが、私が神様から与えられた使命かもしれない」とさえ感じています。
― 最後に、これから挑戦したいことをお聞かせください。
数年前から、私にしかできない何かを生み出したいと考えていて、ジャズやマジック、殺陣などとのコラボにチャレンジしています。実験的試みはニューヨークにとどまらず、2018年には東京・歌舞伎町でクラシック・ライブをしました。野外で「アヴェ・マリア」などを演奏するわけですが、ガヤガヤした歌舞伎町が一瞬にして静まり返り、面白い体験でした。また、歌舞伎町で演奏できたらいいなと思っています。