世界には、思いもよらない分野で活躍されている日本人がいます。NexTalk編集部ミキティによるNYシリーズ。今回はニューヨーク在住の殺陣師・香純 恭(かすみ きょう)さんを取材しました。香純さんは殺陣の道場で多国籍の生徒を指導するだけでなく、映画をプロデュースするなどニューヨークで大活躍されている日本人女性です。
殺陣との出会いは20代。「電流が走った」
― 殺陣師とお会いするのは初めてです。そもそも、殺陣とはどのようなものでしょうか。
殺陣は、歌舞伎の立ち廻りを起源とする日本の伝統芸能です。動き一つ一つに所作があり、相手と呼吸を合わせて、美しい動きをつくり上げていくパフォーミングアーツです。武術と混同されることが多いですが、殺陣は勝敗を決めるものではありません。
― 香純さんが殺陣を始めたきっかけを教えてください。
小さい頃からチャンバラごっこが好きで、ドラマや映画で女性が男性を倒すシーンを観て「かっこいい」と憧れていました。ですから、20代でタレントとして活動していたときも、「いつかアクション映画に出たい」という気持ちはありました。殺陣と出会ったのは、先輩に誘われて訪れた『藝道殺陣波濤流高瀬道場(げいどうたてはとうりゅう たかせどうじょう)』でした。プロの殺陣師やアクション俳優を育てる厳しい道場で、空気が張り詰めていて、息ができないほど。体に電流が走り、「これだ!この世界だ!」と。
― ひと目ぼれですね。女性の殺陣師は珍しいので、歓迎されたのでは?
道場では紅一点でしたが、歓迎どころか、緊張で1カ月ほど口もきけませんでした。がむしゃらに通い続け、道場に泊まり込むほど、のめり込んでいました。ある日道場に行くと、パーティションで私の着替えスペースが作ってあり、しばらくすると、女子更衣室ができて。「認められた」と、うれしかったですね。何年もたってから、師匠に「すぐに根をあげて辞めると思っていた」と言われました。
ニューヨークに道場を開設。「日本の作法が通用しない!」
― 殺陣と出会ったことで、憧れのアクション女優としての道が開けたのですね。道場でも異例の女性幹部に就任されました。
その間、長男、次男を出産しました。子どもたちにアトピー症状などがあり、子育てと仕事の両立は本当に大変でしたし、包帯だらけの子どもを預ける罪悪感にも苦しみ、何度も仕事を辞めようと思いました。それでも、先輩ママから「とにかくほそぼそでもいいから続けなさい」とアドバイスをいただき、なんとかキャリアを保っていたわけです。ところが、3番目の出産後、道場に復帰して「これから」という時に、夫が「ニューヨークに留学したい」と。その頃、母親がガンで余命3カ月を宣告される悲劇も重なってしまいました。
― ニューヨークへ行くのは、後ろ髪をひかれる思いだったのではないでしょうか。
母のこともショックでしたし、必死で築いたキャリアがゼロになることにも絶望し、地の底に落ちた気分でした。それでも、父の「オレの女房の面倒はオレがみる。お前はだんなを支えろ」という言葉に背中を押され、2008年、子ども3人を連れて夫とニューヨークに渡りました。英語もわからず、2年間子育てに専念。その後日本に2年間だけ帰国しましたが、2012年に再びニューヨークに戻りました。
― その時、ニューヨークで道場を開くことは決めていたのでしょうか。
漠然と「ニューヨークで殺陣を広めたい」という気持ちはありましたが、40半ばの3人の子持ちの母が、殺陣なんて誰も知らない異国で、道場を開いて一から勝負できるのか、正直不安でした。
道場開設のきっかけをくれたのは、1人の男の子です。ドイツ人とカザフスタン人の両親を持つ男の子で、ある日、お父さんと2人で、ニューヨーク・ホワイトプレインズのわが家を訪ねて来たのです。私の噂を聞いたそうで、「殺陣を教えてほしい」と。玄関先で、一緒に刀を振りました。その晩、「殺陣を習いたい」とメールが届きました。男の子の熱い思いが、私が20代で殺陣に出会ったときの思いと重なり、「道場を開こう!」と。夫の長期出張中に、家の地下に道場を作りました(笑)。
― その行動力がすごいですね! そして、今ではホワイトプレインズの本部に加え、マンハッタン校でもレッスンをされています。
最初はその子と1対1でしたが、口コミで広がり、2015年にマンハッタンクラスもオープンしました。現在は子どもクラスから、俳優を含む大人クラスまで、毎日レッスンを開催しています。
― 生徒の国籍はバラバラですね。どのような理由で道場に入る生徒が多いですか?文化が違う生徒を教えることは、大変なことも多いのではないでしょうか。
子どもは、イベントなどで演武を見て、「クールだからやってみたい」というケースが多いです。大人は、「日本が好き。文化や歴史を学びたい」という人がほとんどです。俳優は、「演技の幅を広げたい」という理由ですね。特にアメリカでオーディションを受ける日本人の俳優は、殺陣のパフォーマンスを求められることも多いですから。
苦労したのは「受け払い」など殺陣の専門用語を、英語でどう表現すればよいかわからなかったこと。自分で単語集を作りながら指導しました。
でも、言葉よりも大変なのは文化の違い。日本の作法が全く通用しません。特に10代のクラスは、並べない、物を投げる、ガムをかみながらレッスンを受けるなど、日本では考えられないことばかり。「道場に入るときは一礼して」と教えても「Why(なぜ)?」です。「なぜ、そうするのか」、相手や場所を敬う心から、と丁寧に教えていきました。そういえば稽古後、掃除をさせたら、保護者から「掃除をさせるために通わせているわけではない」とクレームが出たこともあります。
レッスンでは、同じことの繰り返しは長続きしないので、いろんな練習を少しずつローテーションする「スパイラル方式」を取り入れるなどの工夫も必要でした。
映画もプロデュース。「殺陣の美しさを伝えたい」
― 映画での殺陣やアクションの指導もしていらっしゃいます。ビジネスの現場で、アジア人であり、女性殺陣師ならではの苦労もありましたか。
「サムライ=男性」のイメージが強いので、「サムライは男でしょ? なぜ女が?」と言われることは珍しくありません。アメリカ人俳優を指導した際は、「アジア人の女より、オレの方が強いのに」という反応もありました。でも、私はこれらの反応にも悲観はしていません。むしろ、張り切ってしまいますね。人種や性別、国籍にかかわらず、誰でも楽しめるのが殺陣の魅力です。その魅力を伝えるチャンスですから。
― 2018年には、初のプロデュース映画作品「First Samurai in New York」が公開されました。19世紀に最初にアメリカに移住してきたサムライのストーリー。史実に基づいているそうですね。
ずっと「NYを舞台にした、女性が主役のサムライ映画を作りたい」と思っていました。資料を探り、1860年代にサムライが海を渡っていたことが分かりました。主役は、亡きサムライの父を持つ、移民であり、シングルマザーの娘。マイノリティー家族のストーリーなのです。
― 初めての映画プロデュースの経験は、いかがでしたか?映画を観た海外の人の反応は?
プロデューサーとしての重責と緊張感がありましたね。予算と時間の制限がある中で、納得するものを撮るために、「どこまで粘るか」「どこで妥協するか」というせめぎ合いでした。「ここは譲れない」という私の思いを、監督が尊重してくださり、スタッフと団結して作品を作り上げることができたのは、本当にラッキーでした。いつも人には本当に恵まれているのです。
「今まで観た刀の戦いと違う」「動きが美しい」という評価をいただきました。私も、派手なアクションではなく、殺陣の美しさで魅せる作品を作りたいと思っていましたので、非常にうれしいですね。
異人種、異文化、異宗教をつなぎ、平和への一歩に
― 海外で殺陣の伝統をつなぐことの意義は、何だと思いますか。
ニューヨークで殺陣を伝えることで、日本の歴史、文化、精神を感じてもらうことができます。多国籍の人とも呼吸を合わせることを学び、相手を理解し、受け入れ、友情が芽生えます。これこそが平和への一歩ではないでしょうか。友だちの国を攻撃したい人はいないはずですから。私の活動が、人の心をつなげるチェーンの1つになればうれしいですね。異人種、異文化、異宗教がつながる刀の先には、未来があると信じています。
― 最後に、香純さんがこれから挑戦したいことはありますか。
末っ子が13歳になったら、いよいよ仕事にフォーカスする時期かなと思っています。現在、ロサンゼルスにも道場を開設することを検討中です。また、次の映画にも着手しています。刀を使ったアクションだけではなく、「殺陣」の美しさ、奥深さも世界の映画界にもっと広まってくれたらいいですね。
― 今後のご活躍も楽しみにしています。ありがとうございました。
次のコーナーでは、殺陣道場に潜入したNexTalk編集スタッフのミキティがレポートをお届けします!