さまざまな「つなぐ力」を紹介する本企画。今回は、大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)の窯元「松永窯」4代目の松永武士さんがニューヨーク(NY)を訪問中との情報をキャッチ。ニューヨークで取材を敢行しました。2011年の東日本大震災で被災した窯元の復活を決意したきっかけとその道のり、ニューヨークで開催するイベント「IKKON BAR」について、お話を伺いました。ところで「なぜ、NYで取材?」。実は、NexTalk編集部のミキティが、8月からNYに滞在しているからです!これからも、NYでご活躍されている方のインタビューやトレンド情報などのレポートをお届けしていきます。

画像: プロフィール 大堀相馬焼「松永窯」4代目 松永武士(まつなが たけし) 1988年福島県浪江町生まれ。慶應義塾大学在学中に起業し、中国で事業を展開。中国に渡る2日前に東日本大震災が起こる。中国のほか香港、カンボジアでもヘルスケア関連事業を展開。家業でもある「大堀相馬焼」の再生に尽力するため帰国。大堀相馬焼をビジネスとしても成立させるため、これまでの経験・知見を生かして事業を展開している。

プロフィール
大堀相馬焼「松永窯」4代目
松永武士(まつなが たけし)

1988年福島県浪江町生まれ。慶應義塾大学在学中に起業し、中国で事業を展開。中国に渡る2日前に東日本大震災が起こる。中国のほか香港、カンボジアでもヘルスケア関連事業を展開。家業でもある「大堀相馬焼」の再生に尽力するため帰国。大堀相馬焼をビジネスとしても成立させるため、これまでの経験・知見を生かして事業を展開している。

ぐいのみ&日本酒&日本食のイベントをニューヨークで

― 大堀相馬焼の窯元「松永窯」の4代目である松永さんは普段、福島で活動されています。このたびの渡米の目的である、ニューヨークでのイベント「IKKON BAR」とはどのようなイベントでしょうか。

「IKKON」というのは、2018年1月に販売を開始した3種類のぐいのみセットです。お酒の特徴に合わせて器を使い分け、味の違いを楽しんでいただけるようになっています。この「IKKON」を使って日本酒を楽しんでいただく「IKKON BAR」を日本各地で開催しており、海外では香港でも開催しました。今回、海外開催の2回目となるのがニューヨークです。ニューヨークの日本食レストラン「SAKAMAI」のお料理とともに、福島のお酒を「IKKON」の器で味わっていただきます。

― ニューヨークで、日本食と福島のお酒、大堀相馬焼のコラボとは!ニューヨークの方々の反応が楽しみですね。

実は、大堀相馬焼は、祖父の代からアメリカの西海岸に輸出されていました。戦後、GHQがお土産として持ち帰り、人気が出たと聞いています。東海岸には入ってきていなかったので、こうしてニューヨークの方々に伝えることができるのはうれしいですね。

― おじいさまの代でつながった大堀相馬焼とアメリカの縁を、松永さんがさらに広くつないでいくのですね。

画像: ニューヨークのカフェで松永さんにインタビュー

ニューヨークのカフェで松永さんにインタビュー

350年の歴史を持つ窯元が東日本大震災で全滅

― 改めて、大堀相馬焼の歴史と、松永窯の特徴を教えていただけますか。

大堀相馬焼は、福島県浪江町に約350年の歴史を刻む、国指定の伝統的工芸品です。絵付けされた旧相馬藩の「御神馬」は、馬が常に左向きに描かれていることから、「右に出るものがない」という縁起物として、地元で親しまれてきました。器の素材とうわ薬との収縮率の違いによって入る「青ひび」、保温性に優れた「二重焼」と呼ばれる中空構造が特徴です。大堀相馬焼の窯元「松永窯」は、明治43年創業で、私は4代目になります。

― 東日本大震災で、350年の伝統が途絶えそうになったと聞きました。

当時25あった窯元は、すべて壊滅しました。松永窯も避難区域となり、家族は栃木県との県境にある西郷村に避難しました。職人たちは、もともと高齢だったこともあり、震災を機に引退したり、他県に移住したり。震災から3年間ほど、大堀相馬焼が焼かれることはありませんでした。それでも現在は、11軒の窯元が復活しています。

画像: 旧相馬藩の「御神馬」は常に左向きに描かれる。「右に出るものがない」縁起物だ

旧相馬藩の「御神馬」は常に左向きに描かれる。「右に出るものがない」縁起物だ

家業には興味なし。失恋を原動力に起業

― 松永さんは、高校卒業と同時に地元を離れて上京されています。いずれは家業を継ぐつもりだったのでしょうか。

いえいえ。幼少期に、ご飯の中に粘土が混じっていたことがトラウマとなり、粘土には嫌なイメージしかありませんでした。私には弟がいますが、2人とも家業の継承には興味がなく、父親も「継ぐ必要はない」という感じでしたね。大変なので、自分の代で終わらせるつもりだったと思います。私は、早く故郷を離れて都会に出たいと思っていました。慶應義塾大学に進学したのは、「将来、就職に有利だし、稼げそう」と思ったから。華やかな世界への憧れもありました。

― 憧れの都会に出て、華やかな大学生活は満喫できましたか。

確かに華やかではありました。でも、周りには根っからのエリート家系の学生も多く、コンプレックスも感じましたね。さらに、好きだった女の子にフラれてしまい……。「オリジナリティーで勝負するしかない」と、大学2年生の時に、高校生向けの教育事業で起業しました。

― 失恋を原動力に起業!?マイナスをプラスに変換する行動力がさすがです。ビジネスはうまくいきましたか。

すぐに収益が出て順調だったのですが、だんだん「もっとチャレンジして成長したい」という気持ちが芽生えてきました。ちょうど、ある中国人と知り合ったことをきっかけに、大学を1年間休学し、中国でビジネスを始めることにしました。

「2日後には中国に飛び立つ」という時に、東日本大震災が起きたのです。地元は壊滅状態でしたが、家族の安否を確認した上で、「今、自分がすべきは中国へ行き、将来のために力をつけることだ」と自分に言い聞かせ、中国に向かいました。

― 中国でのビジネスは厳しそうですが、いかがでしたか。

今思えば無謀でしたが、3カ月ぐらいで軌道に乗り、好調でした。それに味をしめ、香港やカンボジアでのビジネスも検討し、結局、カンボジアでは高級スパを運営しました。

大堀相馬焼を復活させ、伝統をつなぎたい

― 海外でのビジネスが順調だったにもかかわらず、地元に帰ることを決めたきっかけは何だったのでしょうか。

当時、「韓国や中国の企業は海外でエネルギッシュにがんばっているのに、日本企業は元気がないな」と感じていました。日本食やアニメをはじめとするカルチャー、伝統工芸など、誇れるものを持っているのに、海外にうまくアピールできていないなと。「ビジネスとして、日本文化と海外をつなげられるのでは」という思いが強くなったのです。

また、日本に一時帰国した際に、大堀出身のおばあさんが、「相馬焼を見ると大堀を思い出す」と語るのを聞いて、「大堀という土地は失っても、文化は失ってはいけないな」と。父の病気が決定的なきっかけとなり、「大堀相馬焼を再生し、残すことに貢献しよう」と決意して、海外でのビジネスを手放し、帰国しました。

― 窯が全滅している状態で、再建はどこから着手したのでしょうか。

まずは、父親に頼んで、大堀から陶器のカケラを拾い集めてもらいました。そのカケラを原料に、デザイナーと彫金職人の力を借りてアクセサリーを作り、「Piece by Piece」というブランド名でネット販売しました。さらに、父が避難していた西郷村に窯を再建しました。

― 再建の過程で、苦労したこと、困難だったことは何でしょうか。

家族経営の弊害である「甘え」からの脱却が課題でした。成長するためには、3代目までが築いた人間関係を大事にしつつも、外部とのコミュニケーションを取っていかなくてはいけませんから。さらに、販路の拡大ですね。大堀相馬焼は、地元の方々に愛されることで成り立っていましたから、問屋も持たず、県外への流通経路がありませんでした。ネット販売をしたり、県外への販路を広げたりすることに注力しました。

ろくろ職人の不足も課題でした。器の二重構造は大堀相馬焼だけの技術ではありませんが、大堀相馬焼を作れる職人が圧倒的に不足しており、生産力に限界がありました。今は、20代の職人を3人、うちで育てています。土を触るだけではなく、ビジネスとしての考え方なども学んでもらうことで、新たな刺激にもなっているようです。当面の課題は、「いかに需要と供給のバランスを取るか」ですね。今は、需要が拡大して生産が追いつかない状態です。

― 海外でビジネスを興して成功させた経験をお持ちですが、家業を継ぐに当たって、伝統産業ならではの難しさもありましたか。

震災によって、大堀という土地が消失したことで、土地を介したしがらみやルールも崩壊しました。今は、伝統ある産業でありながら、むしろ、新しいことにチャレンジしやすい環境かもしれません。

― 窯の再建、職人の育成、需要の拡大。お話を伺っていると、ゼロからスタートした大堀相馬焼の復興は、すでに成功したと感じます。

私が戻ってしばらくは、復興応援イベントに参加させてもらったりして、「復興」というワードに随分と助けていただきました。復興ストーリーとともに、お客さまに買っていただいた側面もあると思います。ただ、いつまでも甘えていてはいけないと実感し、ここ数年は「復興」を打ち出さない方針にしました。本当に魅力的な商品なら、「復興」に頼らなくても、買っていただけるはずですから。「復興」からは卒業し、その先に向けて歩いているつもりです。

画像: ―  窯の再建、職人の育成、需要の拡大。お話を伺っていると、ゼロからスタートした大堀相馬焼の復興は、すでに成功したと感じます。

地元の資源を活用し、海外につなぐ

― ところで、松永さんにとって、ニューヨークは2回目だそうですね。

2016年に、毎年ニューヨークで開催されている「東日本大震災追悼式典(TOGETHER FOR 3.11)」でスピーチをさせていただきました。たまたま、ニューヨーク在住の知人に誘われたのがきっかけでした。

― 9.11(アメリカ同時多発テロ)を経験したニューヨークの方々に、松永さんはどのようなメッセージを伝えたのでしょうか。

災害や事件でダメージを受けた街は、しばらくは混乱しますし、まずはインフラなどの再建が優先されます。それでも文化を残しておけば、街が落ち着いた後で、それが心のよりどころになる。数十年後には、その土地の財産になり、もちろん、土地の人の自信にもなります。そのようなお話をしたところ、移民としてニューヨークで生活している方に、「故郷を思って共感した」「母国の文化を大事にしたい」と言っていただきました。

― 2年前は、「復興」のつながりでニューヨークに来て、メッセージを送った松永さん。今回は、ぐいのみ「IKKON」を介して、福島とニューヨークをつなげる“おいしい”イベントを開催されるのですね。

今回の「IKKON BAR」の開催も、その時の知人の力で実現しました。こうした形でまたニューヨークに戻って来られたことは、感慨深いですね。

― 「復興」の先を進む松永窯の4代目として、今後、挑戦してみたいことはありますか?

世界各地で「IKKON BAR」を開催して、大堀相馬焼を世界に認知してもらうことが目標です。もちろん、大堀相馬焼をビジネスとして回していける仕組みをつくることも大事です。日本の若者にとって、夢を持てる産業に育てていきたいと思っています。

画像: ニューヨークでの「IKKON BAR」イベントでぐいのみに日本酒を注ぐ松永さん

ニューヨークでの「IKKON BAR」イベントでぐいのみに日本酒を注ぐ松永さん

次のコーナーでは、ニューヨークでの「IKKON BAR」イベントに潜入したNexTalk編集スタッフのミキティがレポートをお届けします!

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