芸能生活55周年を迎え、俳優としてはもちろん、幼少期から続けられている武道の技もますます円熟味が増している藤岡弘、さん(※)。初代仮面ライダーとして大ブレークした藤岡さんは、1970年代当時から全国各地の児童養護施設や体の不自由な方々が利用する施設を訪れ、その後は海外の紛争地にも足を運び、ボランティア活動を続けています。人を思いやる強さ、武道家としての強さ、そして俳優として半世紀以上も第一線に立ち続ける強さはどこからくるのでしょうか。藤岡さんにお話を伺いました。 
※「、(読点)」は「未だ完成していない」という意味が込められている。

厳しいしつけを受けて育ち、映画で世界が広がった

- 幼い頃から武道家のお父さま、華道や茶道の師範代でもあったお母さまから大変厳しく育てられたそうですが、そうした中、どのように俳優を目指されたのでしょうか

父は警察官で、四国八十八箇所を巡礼するお遍路の44番目に当たる愛媛県大寶寺(だいほうじ)を抱く村に赴任していました。そのときに生まれたのが私です。そこは自然の山々に囲まれており、ウサギや雉もいれば、イノシシや鹿、猿もいました。

父は古武道の「藤岡流」を継承する武道家、母もお茶、お花、琴、着物、和裁などの先生をしていました。そのため幼少期は、父から武道の基礎や武士道精神を教わり、母からは日本古来の厳しいしつけを受けて育ったんです。

その後、父が出奔してしまい、母が苦労をしながら兄と私を育ててくれました。そうした環境の中で出合ったのが映画です。

映画を見て、世界が広がりました。東映の時代劇やフロンティアスピリッツあふれる米国の西部劇、伝統を受け継いだヨーロッパのアート映画、さまざまな映画から刺激を受けました。「今のこの環境にいてはダメだ、もっと夢を持ち挑戦しないと埋もれてしまう」と思わされました。そのためには、映像の中心地である東京か京都に行かなければと、夢を追いかけるようになっていったんですね。

画像: 厳しいしつけを受けて育ち、映画で世界が広がった

-お母さまの反応はいかがでしたか

母が大変な苦労をしながら兄と私を育ててくれたことは、身にしみて感じていました。「地元にいれば何とかなる。大学も私が何とかする」と母は止めたのですが、私は「いつまでも頼ってはいられない。自分の道は自分で行く。だから安心してくれ」と覚悟を決めて、東京に出てきたんです。

ところが、上京してその考えが甘かったことを痛感しました。当時は「アルバイトをして稼ぎながら学校へ行き、演技の勉強をすればいい」と思っていたのですが、想像以上に厳しい現実が待っていました。

屈しない精神があったからこそ、生き抜く知恵が生まれた

-上京してから俳優としての道を切り開くまで、どのような生活だったのでしょうか

当時の日本は高度経済成長期で、皆が希望に満ちあふれてエネルギッシュでしたね。「都会で生き抜くためには、田舎と違って戦わないといけないんだ」と思わされるほどでした。ただ、古武道と高校時代の柔道で強化した肉体と精神の強さがあったので自信はありました。

その基礎をたたき込んでくれたのが父です。父からは「どのような状況になっても生き抜く力をお前に与える。そのためにはどのような矛盾、疑問があっても、お父さんの言うことを聞け」と言われていました。当時の私は理解できませんでしたが、理不尽な中でも生き抜く力をたたき込んでくれたんだな、と今では分かります。

画像: 藤岡さんが記した書

藤岡さんが記した書

東京ではアルバイトをしながら俳優の養成学校へ通う日々です。もともと愛媛の訛りが芝居をする上では大きなハンデだったこともあり、そこでは大根役者だ、田舎者だとバカにされましたね。逃げない、負けない、屈しないと心に誓って踏ん張りましたが、アルバイトにも影響が出たり・・・。

食べる物にも結構苦労しました。周囲の農家さんや魚屋さんにお願いして、売り物にならなかった収穫物をいただいたのはまだ良いほうで、雀を捕って食べようとしたこともあったぐらいです。

そんな環境だったのでアルバイトをたくさんしました。睡眠時間を削りながら養成所に通っていたので俳優の勉強に集中なんてできません。ろくに卒業もできなかったので、いくつかの養成所を渡り歩きましたね。ところが人間、過酷な環境にいると、生き抜く知恵が働くもので、睡眠を削るのは芝居とアルバイト両方に良くないと分かると、「効率よく稼げる方法」を考えるようになるんですね。そのうち、割のいいアルバイトをするには資格が必要だと気づき、調理師免許や大型免許など、資格をたくさん取りました。そうやってアルバイトの時間を短くしながら、残りの時間を演劇の勉強に充てられるよう力を蓄えていきました。

画像: こちらも藤岡さんが記した書です

こちらも藤岡さんが記した書です

人との出会いが自分を強くしていった

ー やっと足場が固まり始めたわけですね

そうですね。その後もいろんな養成所を経験しましたが、私はそれぞれの養成所のよいエッセンスだけを吸収していったので、特定の色に染まることがありませんでした。また、実力がなかった分、オーディションを多くこなしましたね。その頃から、「1がダメなら2、2がダメなら3」というように、8段階くらいまで想定する癖がつきました。私は王道の俳優人生を歩んできたわけではないので、失敗しても悔やまないし、むしろ「これを糧に次に進もう」と考えるポジティブ精神が根付きましたね。

養成所に通っているときは、いろんなところからスカウトされたんです。その中で特に目をかけてくれたのが、当時松竹の大女優だった桑野みゆきさんのお父さんでした。その頃、私は赤坂のホテルでアルバイトをしていたのですが、彼女のお父さんと出会い、ご自宅の庭掃除から犬の散歩まで何でもやらせていただく関係が築けました。そこでいろんな話をしているうちに、私のことを松竹に推薦してくださって、松竹のニューフェースとして映画デビューできました。この出会いには、今でも感謝しています。

画像: 甲冑はすべて藤岡さんが実際に着用できるオリジナルの甲冑だそうです

甲冑はすべて藤岡さんが実際に着用できるオリジナルの甲冑だそうです

— そこから初代仮面ライダーとの出会いがあるんですね

松竹は伝統的に女優さんを重用することが多くて、俳優はどちらかというと女優を助ける存在でした。少しずつフラストレーションが溜まる中で、あるとき仮面ライダーのオーディションに誘われました。ところが、ここで問題が起きます。仮面ライダーは東映の制作だったんです。当時は映画会社所属の俳優が他社制作の作品に出るのは御法度という「5社協定」があったので、問題になりました。ただ、当時の私は松竹の見習いで、多額の出演料が発生するほどの存在ではありません。私のことを認めてくれた東映のトップと松竹のトップが相談した結果、晴れて仮面ライダー役に抜擢されたんです。

うれしかったのですが、それまで経験がなかったアクションの世界です。幸いなことに武道経験があり、大型二輪免許も取得したので、スタントマンなしで演技していました。しかし、回を重ねるうちにアクションが過激になっていくわけです。自分の中で「そろそろヤバイな」と思っている頃にバイクがスリップして大事故となり、大怪我を負いました。

当時最先端の医療技術で治療していただき、死ぬ思いでリハビリをしたこともあって、後遺症なく今もしっかりと足が動かせています。

事故後、仮面ライダーに復帰してから視聴率も右肩上がりで、あちこちの催事場に呼ばれるようになりました。その頃から知人に連れられて、老人ホームや児童養護施設などを訪れるようになったんです。ただ訪れるのではなく、プレゼントになりそうなものを集めて、そうした施設に持っていきました。大変でしたが、とてもやりがいを感じていました。

この活動を続けているうち、別の知人から「困っているのは日本だけじゃない。世界にはもっと大変で苦しい思いをしている人がいる」ことを教わるわけです。その言葉に感銘を受け、次第に海外の紛争地や難民キャンプを訪問するようになりました。

画像: 人との出会いが自分を強くしていった
画像: 藤岡さんのご自宅に併設されている庵には甲冑や日本刀、骨董品などが飾られています

藤岡さんのご自宅に併設されている庵には甲冑や日本刀、骨董品などが飾られています

紛争地で見聞したこと、コロナの時代で考えること

— 藤岡さんは、世界100カ国にわたるボランティア活動のほか、国内でも被災地にいち早く寄り添って救援活動を展開するなど、奉仕活動に熱心なことで知られています。その活動を続けられた源泉は何でしょう

海外の紛争地や難民キャンプでは、折り重なり遺棄された一般市民の死体の山とか、日本では考えられないような壮絶な光景を目の当たりにします。

現地だからこそ分かるのは、どの民族も、幸せになりたい、幸せな未来を子孫に届けたいからこそ苦しい思いをしているという事実です。「幸せになりたい」それは地球で暮らす全人類の切実な願いなんですよ。そういう一見当たり前のことが、民族や国境を越え、旅の出会いで実感できるようになりました。つらい状況にある人の助けになりたいと思っていましたが、それは自己を発見できる、あるいは自分が助けられる救済の旅だったことに気づきました。

結局、「人との出会いが運命を変え、人生を変え、歴史を変えていく」んですよね。自分自身の歩みを振り返っても、本当にそう思います。だから、私はいつも出会いに感謝しているし、次の出会いにワクワクしている。感謝なんですよ。助けるつもりがいつの間にか助けられ、さまざまな心の壁を越えたつながりや共感を生む。そうやって自分が学んできたことを、子どもたちにも伝えていきたいと思っています。

— 現地に足を運ばれてきたからこその重みを感じます。最後に、これからの夢や目標についてお聞かせください

俳優という立ち場、ハリウッドをはじめ各国の映画関係者と築いてきた人脈を通じて、日本の武士道精神や精神的な強さを訴求していきたいですね。私のようなサムライが日本には実際にたくさんいることを海外で示すことは、抑止力につながると信じています。日本においそれとは手が出せないとなりますから。そしてそれは、この国の未来や子どもたちが幸せな生活を続ける礎になると思うんです。いつの日かそういう魂を訴える映画を制作したいのです。

どの国の人々も、みんな幸せになりたいはずなのに、今、世界は混乱状態にあります。世界中に不安感が押し寄せる中、2020年には新型コロナウイルスが発生し、大きな転換期を迎えました。今後、それぞれの世界や地域で、国々の真価が問われる時代になると思うんです。全人類が、地位・名誉・財・金や個別の属性に関係なく、どう生き抜いていくのか、どうやって幸せで平穏な日常を築いていくのか、どのようにサバイブするのか、その取り組みが試される時代がやってきます。そうした流れの中で、自分や日本という国ができることは何なのか、今は静かに考える時期なのかもしれませんね。

画像: 俳優になった現代のサムライ 藤岡弘、さんインタビュー
「映画という手法で日本の精神的な強さを発信したい」(2021年3月9日号)

【プロフィール】
藤岡弘、(ふじおかひろし)
俳優・武道家
1965年、松竹映画でデビュー後、1971年、「仮面ライダー」に抜擢され一躍ヒーローに。映画「日本沈没」「野獣死すべし」「大空のサムライ」ほか、主演多数。テレビ番組「勝海舟」「白い牙」「特捜最前線」「あすか」「藤岡弘、探検シリーズ」ほか、主演多数。「実をもって虚となす」をモットーに、アクションシーンにおいてはスタントを使わず自らこなすアクション俳優として映画界を牽引してきた。1984年、ハリウッド映画「SFソードキル」の主役に抜擢され、国際俳優として日本人で初めてスクリーン・アクターズ・ギルド(全米映画俳優組合)のメンバーとなる。主な著書に『藤岡弘、の人生はサバイバルだ』(本の泉社)、『あきらめない』(メタモル出版)などがある。2020年、芸能生活55周年を迎えた。 

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