前編では木村飲料のユニーク飲料の開発について話を聞きました。しかし、同社がユニーク飲料の発売に至るまでには、いくつかの壁を乗り越えなければなりませんでした。飲料業界、流通業界の激しい変化をどう乗り切ってきたのか。時代を生き延びるコツとこれからの夢を木村英文社長に語ってもらいました。

2300社が約60社になる中で生き延びる

―今は中小のラムネメーカーの名前をほとんど聞きません。中小の飲料メーカーが戦える市場が縮小する中で、木村飲料は売り上げも伸ばしてきました。今回は、木村飲料が時代を超えてラムネやサイダーを作り続けてこられた理由を探りたいと思います。創業は1947年ですが、戦後すぐに事業を始められたきっかけは何だったのですか。

当時、祖父は税務署に勤めており、会社の税務を調べていく中で、飲料メーカーがもうかると予想したようです。当時は食品業界に今のような大手と言われるメーカーが少なく、ラムネメーカーに限っても全国に2300社ありました。島田市内だけでも4社ありましたが、今は静岡県に本社を置くラムネメーカーは当社のみです。

私が生まれたのは1956年。その頃は自宅の隣の工場で、ラムネやサイダーを製造し、近くの小売店に配達していました。祖父も父も忙しそうに働いていました。

画像: ラムネ売りの屋台で売っていた懐かしいラムネのビン!現在は、清涼飲料水の72%がペットボトルに。

ラムネ売りの屋台で売っていた懐かしいラムネのビン!現在は、清涼飲料水の72%がペットボトルに。

―木村社長が入社した頃は、会社はどのような状況にあったのですか。

私が大学に進学した頃には、10人くらいいた従業員も減って、両親と叔父の3人が働いているだけに縮小していました。私が入社した1980年頃には、売上高も約7,000万円までが限度で低迷していました。

1970年頃から食品業界、流通業界は大きな変革が進みます。チェーンストアの出現と物流網の変革です。チェーンストアでは大量販売が行われ、商品を供給できる大手メーカーとの取引が拡大していきます。それまでは中小企業も、地元に密着して自社配送していれば十分に商売が可能だったのです。しかし、大手メーカーが全国展開を進め売上規模を拡大していく中で、中小メーカーは徐々に販路が狭まっていきました。

―まったくの逆風下にある会社を継ごうと思われたのはなぜですか。

子どもの頃から、会社を継ぐように繰り返し言われていて、配達など家業の手伝いをしていました。いずれは父の下で働くのだろうなとは思っていました。実は、大学生の頃から1人で学習塾を始めていて、50人ほどの生徒を教えており、ピーク時は普通のサラリーマンの5倍くらいの収入がありました。家を継いでも二足のわらじを履いていれば、いざというとき何とかなるかなという思いがあったのも事実です。

画像: ―まったくの逆風下にある会社を継ごうと思われたのはなぜですか。

その学習塾は飲料水の仕事が忙しくなった30歳の頃にやめるのですが、40歳頃になってまた始めて、それが「合格必勝ダルマサイダー」発売のきっかけになったのは、先ほど(前編で)話をした通りです。

―会社の仕事に本気で取り組んでいこうと思われたきっかけはありましたか。

入社してすぐに、最初の転機が訪れました。それは、父と一緒に三重県にある同業他社を訪問した時のことでした。その会社は、当社と同じような中小企業でしたが、大手メーカーからの下請け商品の製造をしており、同時にクリームソーダを小売店に直販で販売して、業容を拡大していました。やりようによっては、中小企業も生き残れるのだと思ったことを鮮明に覚えています。

―最初に取り組まれたことは何だったのでしょうか。

父と一緒に、従来の本社工場にてそれまでのリターナブル瓶(ガラス瓶)の飲料に加えて、ワンウェイ瓶のペットボトルのラムネの製造を開始しました。それがヒットして、会社の売り上げも一気に1億円の壁を越えました。当時の工場だけでは供給が間に合わず、1988年にペットボトル専用の工場を、吉田町に新設しました。父は工学部の出身でしたので、新設ラインについても詳しかった。同時に、大手メーカーの下請けも開始しました。

画像: 木村飲料の本社。昭和にタイムスリップしたかのような佇まい。

木村飲料の本社。昭和にタイムスリップしたかのような佇まい。

変化を乗り切り、売り上げは25倍に

―下請け商品の製造で会社の規模は順調に拡大していったのですね。

いえいえ、決して順風満帆ではありません。1990年代に、大手メーカーから下請け製造の大口の話がありました。そこで生産ラインを拡大し、準備を進めていたのですが、当時の業界の事情でその商品の販売が中止になりました。あの時のダメージは大きかったですね。その時、下請けで製造するだけでは大きなリスクがあることを痛感しました。「自力で踏ん張ってやらないと潰される」と思いました。

その後、焼酎割用のサワーが転機になりました。販路は、その頃店舗数が増えてきた酒ディスカウントストアなどでした。全国行脚してディスカウントストアの店舗を回り、サワーと一緒に当社の主力のサイダーやラムネも卸すことで、そこから売上規模は毎年1億円ずつ伸びるようになっていきます。

そのサワーブームも一段落する中で、海外にも進出しようと考え、2003年に初めて海外の展示会に出展しました。ある商社と組んで販路を順調に拡大しましたが、ここでも落とし穴があったのです。納入先の商社の経営陣が刷新されて方針が変わったため、一気に海外事業が落ち込みました。このダメージが大きく2年ほど戦意喪失しましたが、そのうち状況が変わり、今では世界37カ国で当社のラムネやサイダーが販売されています。

画像: ―下請け商品の製造で会社の規模は順調に拡大していったのですね。

―海外進出の後に、新しい事業のタネとすべくユニーク商品を開発されたのですね。激しい変化の中で大変な経験をされてきたように思いますが、自力で踏ん張ると決意されたことが、「わさびらむね」や「カレーラムネ」「うなぎコーラ」につながっていると思うと、変わったフレーバーもより深く味わえそうです。

消費者の嗜好、飲料業界の変化に合わせて、速断で作るものを変えてきたことが、今の木村飲料が生き残れたポイントだと思っています。売り上げ1億円規模の会社が、今はなんとか25億円あたりまで売り上げを伸ばすことができました。

観光工場をつくって地元に還元したい

―これから木村飲料はどのような新しい事業にチャレンジしていくのでしょうか。

静岡県は富士山や南アルプスを抱え、伏流水による水資源に恵まれています。特に当社のある島田市から北に上がった地域では、南アルプスを源流とする良質な水が湧いている所が多いのです。この水資源を活用していきたい。南アルプスのミネラルウォーターを使って、スピリッツ・ウィスキーの製造にも挑戦したいですね。

実は、近々に第3の工場を新設する予定です。そこではラムネの工場見学ができるようにして、観光工場にしたいと考えています。今、社会科の授業の一環で、小学校に出向いて話をすることが増えました。社会科見学で子どもたちが工場に来ることもあります。そうした機会をもっと持てると、私はとても幸せに感じます。

画像: ―これから木村飲料はどのような新しい事業にチャレンジしていくのでしょうか。

―ラムネの新商品だけでなく事業のアイデアも尽きませんね。木村飲料を応援したくなります。

今、私の長男が会社に入って、後を継ぐ準備をしてくれています。これからの私は、観光工場など、地域に還元できるような取り組みを行っていきたいと考えています。

―これからも消費者を楽しませる新商品を楽しみにしています。本日はありがとうございました。

画像: プロフィール 木村英文(きむら  ひでふみ) 1956年静岡県島田市生まれ。1979年静岡大学人文学部卒。祖父が設立した木村飲料に入社し、1999年に3代目取締役社長に就任。「必勝合格ダルマサイダー」「わさびらむね」「カレーラムネ」「うなぎコーラ」などのユニーク飲料を発売しヒットさせる。全国清涼飲料工業会理事、静岡県清涼飲料工業組合理事長、全国ラムネ協会会長、島田関税会会長も務める。

プロフィール
木村英文(きむら ひでふみ)
1956年静岡県島田市生まれ。1979年静岡大学人文学部卒。祖父が設立した木村飲料に入社し、1999年に3代目取締役社長に就任。「必勝合格ダルマサイダー」「わさびらむね」「カレーラムネ」「うなぎコーラ」などのユニーク飲料を発売しヒットさせる。全国清涼飲料工業会理事、静岡県清涼飲料工業組合理事長、全国ラムネ協会会長、島田関税会会長も務める。


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