ノンフィクション作家の中村安希氏は、旅をしていると世界各地でさまざまな料理をごちそうになるそうです。第7回は、エチオピア暦の新年を祝う家族に招待されたエピソードを紹介します。エチオピアの家族は新年をどのように祝うのでしょうか。

年越しインジェラ

「僕の街に来て一緒に新年を祝いませんか」
 そう声をかけてくれたのは、機内で隣席になった若いビジネスマンだった。
「どんな風に祝うのですか?」
「家族と普通に……」
 2015年9月9日、私は3日後に控えたエチオピア暦の新年を祝うために、彼の妻と3人の子どもたちが待つデブラゼイトという街に向かった。もちろん、普通の正月がどんなものかなんて、よく分かってもいなかったのだけど。
大晦日の夜、主と私が枝の束を抱えて家に戻ると、8歳と4歳の息子が「チュボ!」と手を叩いて飛び出してきた。今夜は『チュボ(祝いの焚火)』を囲んで新しい年に備えるという。キッチンでは正月料理の準備が始まっていて、炭火のコンロ2台と電気コンロ2台が、フル稼働していた。タマネギを一心不乱に切り刻む妻に「手伝いますよ」と声をかけたが、「休んでいてください」と微笑むばかりで、なかなか手伝わせてくれない。彼女は30分ばかりかかって刻み終えた6キロ分のタマネギを大鍋にあけて火にかけると、続けざまに大きなたらいに小麦粉を広げ、水を加えて捏ね始めた。時刻は既に9時40分。明日の朝までに、直径50センチ、厚さ10センチもある大きなパンを焼き上げるらしい。
妻が料理を続ける間に、庭ではチュボが行われた。たいまつを手にした夫と子どもたちが、円になって歌を歌う。火の中に爆竹を混ぜていたずらをする長男。熱かったのか、火に背を向けて逃げ出す次男。空に伸び上がる火柱を眺めていると、なんだか私まで、急に正月めいた気分になった。と言うのもこの火柱、どんと焼きにそっくりなのだ。
パン生地をねかせている間に、妻はインジェラ作りに取り掛かった。これは発酵させたテフ(イネ科の雑穀)を焼いたもので、クレープのような見た目をしたエチオピア人の主食である。彼女はバケツ一杯分用意されたタネを鉄板の上に敷き伸ばし、直径70センチもあるインジェラをざっと15枚ばかり焼き上げた。
11時30分。キッチンに集まった家族全員に、今年最後の夜食が振る舞われた。インジェラと簡易ソースだけの、至ってシンプルな食事を、みんな黙々と食べている。バタバタと忙しい大晦日の夜に、束の間の一服を入れると、なんだかまた懐かしさがこみ上げてきた。この雰囲気、年越しそばをすすっているときとそっくりなのだ。

長い長い大晦日の夜

画像: 仕込み途中の鶏

仕込み途中の鶏

雌鶏の首筋をナイフの刃が一滑りしたのは、子どもたちが寝静まった午前1時のことだった。
役目を終えた夫が、ナイフについた血を洗い寝室へ消えると、再び妻の出番がきた。煮えたぎる熱湯に鶏を浸し、羽という羽をむしり取っていく。熱さのあまり何度も指を引っ込めるが、しかし彼女は、すぐまた果敢に掴みかかり、あれよあれよと言う間に、鶏を皮一枚だけの丸坊主にしてしまった。それから皮にスパイスを擦り込み、表面を直火で十分にあぶってから、解体作業に取りかかった。
作業は、とても慎重に、また丁寧に進められた。完璧な血抜きと各部位の洗浄度合いが出来映えを左右する、と言われる『ドロ・ワット(鶏の煮込み)』作りにおいて、まさにお手本のような仕事ぶりだ。切り離される内臓、次々と出てくる卵黄、きれいに取り除かれていく手羽先などの固い部位……、流れるような一連の作業に目を奪われながら、私はタマネギの入った大鍋を、木べらでゆっくりとかき混ぜ続けた。家族が寝静まった深夜のキッチンに、女が2人。時折目が合うと、彼女は「疲れたでしょう、もう休んでください」と繰り返し、ふっと親密な笑みを浮かべた。タマネギを煮込むこと7時間。飴色の玉ねぎをかき分けるようにして、木べらで鍋底をこすると、新しい年の夜明けにまた少しだけ近づいた実感があった。
「本当に、もうそろそろ寝た方が……」
彼女が心配そうに呟いた午前4時、私は静かに頷いて、とうとう木べらから手を離した。 「あなたも、早く休んでくださいね」
キッチンをあとにするとき、私はそう声をかけた。彼女は疲れを隠すように精一杯の笑みで応じ「手伝ってくれてありがとう。本当に助かったわ」と労いの言葉までかけてくれた。
このあと、彼女が一睡もしなかったと知ったのは、翌朝9時、ようやく起き出してきた私が、テーブルに並ぶご馳走を目にしたときだった。

家族と過ごす普通の正月

画像: ドロ・ワット(鶏の煮込み)とインジェラ

ドロ・ワット(鶏の煮込み)とインジェラ

居間のテーブルの上には、祝いの席で食べるドロ・ワットの他に、付け合わせのゆで卵と、ラム肉のソテー、それから焼きたての巨大なパンが運び込まれていた。加えて家中の床という床が、一年の始まりに相応しくピカピカに磨き上げられている。さらに、コーヒー発祥の地エチオピアならではとも言うべき『コーヒーセレモニー』の準備もされていて、床には香り付けの草が敷かれ、セレモニーに必要な茶器から付け合わせのポップコーンまで、一通り用意されていた。
「明けまして、おめでとう。さあ、どんどん食べて」と妻に勧められ、私はドロ・ワットをたっぷりと包んだインジェラにかぶりついた。プリプリした新鮮な歯ごたえのチキンと、10時間以上かけてじっくりと煮込んだタマネギが、独特のスパイスと絡み合い、深い感動と共に胃の中へと沈み込んでいく。正月の朝に、こうして母親が心を尽くして作り上げたおせち料理にありつく、しかも料理上手な母親を持てて、なんて幸運な子どもたち……と思いきや、子どもたちが熱心に食べていたのは、ドロ・ワットではなく、なんとコーヒーセレモニー用のポップコーンだった。
「僕は、シュロ・ワット(年越しインジェラと一緒に食べた簡易ソース)のほうが好き」と屈託なく話す長男は、少しくらいはドロ・ワットにも手をつけたが、次男坊に限っては、ポップコーン以外にはまったく興味を示さなかった。せっかくのご馳走なのに、努力の賜物なのに……と、ちょっともったいないような気持ちで食べ終えたあと、しかし、ウトウトしながら正月番組を見始めた妻の姿に、何だかまた正月っぽさを感じて懐かしくなった。庭では、食後のデザートだけはしっかり食べ切った子どもたちが、新しい靴を履いて、元気いっぱいボールを蹴り合っている。
「普通のお正月……」
おせちよりお年玉が楽しみだった子どもの頃を思い出しながら、そう独りごちた。

画像: 中村安希(なかむら あき) プロフィール: 1979年京都府生まれ。 2003年カリフォルニア大学アーバイン校卒業。 日米での3年間の社会人生活を経て、約2年間、47カ国にわたる旅に出る。 その過程を書いた『インパラの朝』で第7回開高健ノンフィクション賞を受賞。 ほかに『Beフラット』『食べる。』『愛と憎しみの豚』『リオとタケル』の著書がある。 撮影:亀井重郎

中村安希(なかむら あき)
プロフィール:
1979年京都府生まれ。
2003年カリフォルニア大学アーバイン校卒業。
日米での3年間の社会人生活を経て、約2年間、47カ国にわたる旅に出る。
その過程を書いた『インパラの朝』で第7回開高健ノンフィクション賞を受賞。
ほかに『Beフラット』『食べる。』『愛と憎しみの豚』『リオとタケル』の著書がある。
撮影:亀井重郎

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